南相馬日記
南相馬市は職員などを対象に、除染の実証実験を原町区の石神第二幼稚園で行ないました。東京大学アイソトープ総合センターの児玉龍彦センター長らに、教育委員会の職員を中心に、今後、市内の除染作業にあたる職員が、除染のやり方などの指導を受けました。南相馬市は8月、9月を市内除染強化月間として位置付けていますが、その皮切りの行事です。
子どもたちを、放射能の心配がない場所でのびのびと遊ばそうという、「南相馬 こどものつばさプロジェクト」が大々的に行われています。その一環として、ピースボートに乗って、ベトナム→シンガポール→スリランカと旅する、中学生49人が成田に向け、出発しました。FM放送は出発を伝えるだけでなく、ピースボートの協力を得て、旅の様子を、中学生の生の声を交えて放送します。
「一千有余年の歴史を誇る、国の重要無形文化財、相馬野馬追」が始まりました。原発事故のため、大幅に縮小されましたが、相馬市、鹿島区では、ほぼ例年通りの行事が行われました。南相馬市での今年のメイン・イベントは、鹿島区に住む副大将が、相馬市から南下する総大将を迎える儀式と、その後の「お行列」です。多分に、観光気分で取材しました。
市の南西部にある馬事公苑にある、津波による写真、位牌、ランドセルなどの遺失物の展示場の関係者からメールがありました。遺失物を展示していることを広報してほしいとの依頼でした。毎日のように放送しているので、HPの今日の南相馬のページで紹介することにしました。ここは小高区の遺失物を中心に展示しています。小高区の人が見に行くと、必ず知った顔の写真が数枚は見つかるにも関わらず、余り訪れる人がいないといいます。こういう依頼が入るのは、FM放送の認知が、少しずつ広がっているということなので、嬉しく感じました。
第2回南相馬市復興会議が開かれました。事務局から復興ビジョンの基本理念案などが出されました。委員からは、復旧のために急いで対応すべき問題があるという意見が、多く出ました。
鹿島区の上真野小学校で、プールの周辺の除染作業が行われました。ボランティアが中心になって、先生、保護者らも参加しました。周辺の側溝にたまった土ぼこりを集めて、ビニール袋に入れました。そのあと、高圧洗浄機で水を吹きかけて、洗い流しました。当初、側溝の表面で、10マイクロ・シーベルトあったものが、埃を取った段階で3になり、最後には、空間線量とほぼ同じ0.4まで下がりました。土ほこりの入ったビニール袋は、子どもの近づかない場所に、深さ1メートルの穴を掘って埋めるそうです。
市が帰還計画を発表しました。福島県が8月中に、体育館など一次避難所を占める意向で、市もその方向にそったものです。7月末までに一次避難所を出、8月中には自宅、仮設、借り上げ住宅、避難所など、南相馬市内に帰還することを促しています。ただし、強制ではないといいます。強制ではないにしても、住居費、生活費の自己負担を求められたら、避難を続けられるのでしょうか。
災害FMのホームページを作っている。HPを使って、市外の人に情報を提供するのは当初からの目標のひとつだった。インターネットの環境が良くないことなどもあって、のびのびになっていた。ここにきて様々な環境が整って、東京にいるパソコンやHPにくわしい、市民ボランティアYHさんの全面的な協力を得て、ホームページを開設した。YHさんの協力がなければ、もっと時間がかかっていたことだろう。
ボランティアとして避難所でメンタルケアに当たっている看護師さんら二人に話を聞きました。
二人によると、避難所暮らしが4ヵ月近くになって、避難者の精神状態は、限界に近くなっているようです。看護師さんに言わせると、避難者だけでなく、避難者をお世話するスタッフも、かなりに追い詰められているそうです。その兆候が、どちらにも、不眠を訴える人が多いことだといいます。うつ病は、まず、不眠として現れることが多い病気です。
南相馬市主催の慰霊祭がありました。遺族の出席は2人までと制限されても、市の文化会館の大ホールが、すべて遺族で埋まりました。一般市民はロビーで記帳し、別室で館内放送を聞きました。昨日は、復興市民会議の第一回会議が開かれ、一応一区切りですが、復興よりもまだ復旧という声が多いのも事実です。