南相馬日記
南相馬災害FMの放送は、午前9時、午後1時、午後5時の1日3回の放送だけでしたが、今日から、午後9時「ごろ」から再放送を開始しました。働いている人、学校に行っている人も聞くことができる時間に放送するというのは、当初からの大きな目標のひとつでした。「ごろ」というのは、無人放送のため、きっちりとした時間管理が、まだできないからです。
7月1日から加わる新メンバーも含めて、第一回の全員ミーティングを開きました。出席者は、市役所の担当者とその補助役の計2人、DJ担当が5人(ほかに欠席者が1人)、メカ担当が2人、取材担当が2人、そして私と総計11人。政府の緊急雇用事業(きずな事業)による雇用が中心で、多くは1日4時間、週5日のパート職員です。
新潟県の小千谷市、三条市など五つの市町村に避難していた、12世帯19人の方が、市のチャーターした観光バスで、南相馬市に帰ってきました。市は、市がチャーターしたバスで避難した人は、市が迎えにいく方針です。
南相馬市南部の小高工業高校は警区域内にあり、生徒たちは県内の五つの高校をサテライト校として分かれて勉強しています。約半数が通う、相馬市の相馬東高校を訪ね、先生にお話しを聞きました。
相馬東高校では、二つある体育館の一つを高さ2メートル弱の板で仕切って、六つの教室を作って授業をしていました。仕切は薄く、天井もありませんから、となりの教室の声は筒抜けです。本来なら各学年4学科があり、別々の授業ですが、ここでは各学年2クラスで、学科別の授業ができていません。さらに、工業高校の特色は豊富な実習や実験の授業ですが、普通高校の相馬東高校では、まったく行われていません。
18日のJVCの総会後に開かれた、「会員の集い」に出席するため、17~19日は、東京に「出張」しました。留守は、JVC東京の福島担当の白川が南相馬に「出張」です。
留守の間に、FM放送の部屋に光回線が引かれて、インターネット環境が大幅に改善しました。これまで市役所内の回線を利用していたのですが、通信速度が遅く、使い勝手が悪かったのです。大津波後の復旧作業に忙しいNTTに無理を言って、新たに回線を引いてもらったのは、サイマル・ラジオとの接続のためでした。
図書館を再開してほしいという要望がメールで伝えられました。図書館を管理する教育委員会にたずねると、施設的には問題はないが、図書館の職員をすべて、本庁舎での災害対策の仕事に充てているため開けていないが、再開を検討中とのことでした。政府の緊急雇用政策が浸透すると、再開されることになるでしょう。
鹿島区で再開した、特別養護老人ホームの取材をしました。
この特養を運営する南相馬福祉会は、市内各区に特養3つのほか、グループホームなどを運営しています。大震災の直後、同会が運営する「入所施設」には、約230人がいました。原発事故により、全員の避難先を探すのが大変だったようです。普段でも、高齢者の入所施設は全国的に満員です。思いあぐねた職員の一人が、ツイッターで窮状を訴え、それをきっかけに、テレビに電話出演しました。テレビを見た横浜市の医療法人が受け入れてくれることになり、3月19日にパトカーの先導で、大型観光バス5台で、9時間かけて、避難したそうです。横浜ではロビーで寝た方もいたようです。最近の入所施設は、寝たきりに近い人か、認知症の人ばかりですから、さぞかし大変だったことでしょう。
愛知県のNGO「チェルノブイリ救援・中部」が10、11日、南相馬市の放射線の500メートル単位のメッシュ調査と、高いと思われる場所でのポイント調査を行いました。彼らと連携する、アースデイ奄美の三浦万尚さんに話を聞きました。三浦さんは、2カ月以上南相馬に滞在、メンタルケアに取り組む傍ら、希望者宅周辺などのポイントで測定も行っています。
昨日、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實先生が講演のため、原町にいらっしゃいました。鎌田先生は震災直後に医療支援チームを送り込まれたほか、ご自身も震災以来、5度も南相馬に来られているとか…。JVCともご縁が深く、イラクで一緒に活動するほか、30周年のシンポジウムにご出演いただきました。
十数年前の阪神淡路大震災の折、神戸市の長田区に、災害FM放送局が設立され、大活躍しました。その放送局は「コミュニティFMわいわい」へと進化しました。設立以来、一貫してその放送局に携わってきた代表の日比野さんが、来訪されました。日比野さんとJVCは古くからのお付き合いがあり、私たちの放送へアドバイスをと、お招きしました。お土産は、音声の編集用と、放送の録音用のパソコン2台、ハードディスク(HD)2個です。1台のHDには、約2万5000曲の音楽が入っており、もう1台にはこれからの放送すべてを録音していきます。