アフガニスタン最新情報
アジズラーさんは22才の高校生、休日には畑で働いています。もう10年以上、トマト、ジャガイモ、ナスなどの野菜を作ってきました。ジャララバードの北にある畑ではカリフラワーの収穫が真っ盛り。カリフラワーは寒い季節にできる野菜で、10月末から栽培します。
誕生日。人間がこの世に生まれた大事な日。生きた証を刻む、一年に一度だけの記念日。
そのお祝いの仕方は国によって違い、また家庭によっても個人によっても違うもの。しかし。アフガニスタン人と仕事をしていると、誕生日ってなんだろうと思わされます。
出生登録などの制度が整っていなかったり、紛争時代に難民が多く出て人口移動があったり、子どもの数が多かったり、...など、様々な理由から、アフガニスタンの仲間たちはほとんど自分の生まれた日を正確に知らないと言います。
スタッフのプロフィールを見ていて「やけに1月1日生まれの人が多いなぁ...」なんて思っていると、正確な記録がないので登録しに行った際に覚えやすいようにそう記載するからという理由でした!現地スタッフ曰く、男性(女性も?)は、自分がいつまでも若く、強く見せたいという思いがあるようで、実際よりも若く名乗ることもあるようです。日本に来て自己紹介するときも、「僕は約40歳です」「兄弟姉妹が多いので母親が覚えておらず、よく分からない」などということがあり、驚かれます。毎年同じ歳を名乗り、なかなか歳を取らないスタッフもいます(笑)
私の半生
私はJVCの事業地があるナンガルハル県の隣のラグマーン県で生まれました。私が育った村はとても平和で、それはのどかなものでした。しかし私が3年生の時にソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、戦争と暴力の時代が始まります。多くの人はパキスタンやイランへ避難しましたが、私は村にとどまり、10年生まで学校に通いました。しかし最終学年(12年生)まで学校に通うことはできず、カーブルの軍事学校に入りました。そこで半年間、軍事訓練と教育を受け、ジャララバード近郊の大隊に配属になりました。4年間の配属中には幾度もカーブルで軍事訓練がありました。
1月13日、JVCアフガニスタンの現地スタッフの息子(6ヶ月)が亡くなりました。
私はその日、東京事務所からいつものようにそのスタッフとスカイプを使って活動の進捗確認をしていました。途中で彼の携帯電話が鳴り、家族から子どもの様子が急変したという連絡を受けた彼は、急いで家に帰るためその場でスカイプを切りました。
JVCアフガニスタンは、都市部から離れた農村地で唯一の診療所を運営する一方で、病気診療だけでなく病気"予防"に力を入れるべく、村人と協力して地域保健の活動をしています。
その一環で、学校を拠点として健康教育も続けてきました。学校は教員と子どもたちが集まる公共の場所なので、健康に関するメッセージを伝える格好の拠点となりえます。学校での学びを、子どもたちが家族にも伝えていくことも期待しています。
これは大事な点ですが、私達が活動している場所・シェワ郡の大部分は都市部から遠く、山があり、川があり、岩場があり、ヘビもおり、道路が整備されておらず車も通れないといった、危険がたくさん詰まった場所でもあります。(こちらの記事「まるで映画の世界?ワクチン接種員の道のり」も御覧ください。)
怪我が病気をしても最寄りの診療所が何キロも先、という状況なので、自分たちで怪我や病気を防ぐことがまずは一番大切なことです。そこでJVCは学校でも応急処置の練習や、健康に関する作文を掲示する壁新聞活動など、医療施設やサービスが行き届かない場所で自分たちの命や健康を守るために必要なノウハウを伝えています。

今回紹介するバズワンさんは、教師歴30年のベテラン先生です。ゴレーク村に生まれ、小さい頃から頭が良く、目上の人を尊敬し、記憶力も抜群でした。7才の時、学校の先生になりたいと父親に語ったところ、父親はその夢をかなえてあげると約束しました。父親はバズワンさんを学校に入れ、勉強も手伝ってくれました。一生懸命勉強したバズワンさん、成績はいつも一番でした。やがて学校を終えて念願の教師になりました。夢が実現してとてもうれしかったと言います。
(アフガニスタンからサラーム、今回は第六回のナビ・ジャンさんに続き二人目の運転手シャー・ムハンマドさんを紹介します。多くの日本人が経験したことのないような過酷な時代を生きてきたシャー・ムハンマドさん、そのことばには重みがあります。現地から届いた英語の原文を訳しながら、わたしたち東京事務所スタッフも心を動かされました。)
つらかった子ども時代
私はナンガルハル県のザルショエ村カマ地区で生まれました。公務員をしていた父は私が3歳の時に亡くなり、一番上の兄が家族を支えるようになりました。私が3年生の時、ソ連がアフガニスタンに侵攻するという噂が流れ、人々はパキスタンに避難をはじめました。ソ連に対するジハード(聖戦)がはじまり、標的は政府関係者にも向かいました。公務員だった兄もムジャヒディン[注]から仕事をやめるようにと警告を受けるようになりました。
私はムジャヒディンが家にやってきて入り口のドアをノックした夜のことを忘れることができません。母はそれがムジャヒディンだとわかっていたので、子どもたちを起こし、藁の下に隠れさせました。そして決して泣いたりしないようにと言い聞かせました。もし声を聞かれたら殺されると。しかし母が私たちを藁の下に隠したとき、一匹のさそりが私を噛みました。私は叫びたい気持ちを必死でこらえ、痛みをがまんしました。ムジャヒディンは爆弾でドアを壊して家に侵入し、家財道具をすべて持って行ってしまいました。この事件のあと私たちはジャララバードに移りましたが、移動の途中で私は誤って川に落ちてしまったのです。3日後に家族が病院にいる私を見つけたということです。
やがて上の兄はバティコート地区で仕事を見つけ、下の兄は軍隊に勤めはじめ、私が13才で家族を支えるようになりました。ある日、私はバティコート地区に兄を訪ねるためバスに乗りました。40人くらい乗客が乗っていましたが、途中の道にしかけられた爆弾が爆発、30人が死亡、他の乗客も負傷しました。幸い私は無事でした。
[注]ムジャヒディンは、イスラム世界へ侵略する勢力に対抗してジハード(聖戦)を遂行する組織。「イスラム聖戦士」とも訳されます。

アサドゥラーさんは、バル・カシュコート村の女子学校の校長先生です。タリバン政権崩壊後、多くの女子が学校に戻ってきました。しかし長年にわたる紛争で女性教員の数は不足しており、学校には女の先生が一人しかいません。もっと女の先生がいれば多くの家が娘たちを学校に行かせるようになり、生徒の数も増えるのに・・・と彼は言います。女性教員は、女の子たちが家から外に出るのを助け、それは村を変える力となります。
しかし村人たちは、娘が教育を受けると伝統的な規律を忘れてしまうのではないかと心配しています。教育を受けるより、家で編み物を習う方が大事だと考えているのです。大家族が多いアフガニスタンでは女性は多くの家事をこなさなければなりません。だから家族は女性を学校に行かせたがらないのです。
アサドゥラーさんは、学校で宗教も教えています。読み書きができることは闇の中で光を持つことだと、イスラム教でも言われています。それは男女によらず人間に必要なことです。彼はそういった教えを伝えながら、女の子たちを学校に来させるように人々を説得して回っています。
私は29才、ジャララバードで生まれました。私の家は、祖父・祖母・伯父・叔母などと暮らす大家族でした。父は兵士です。私が7年生から12年生※注(1)の頃はタリバン政権の時代でした。生徒たちはターバン姿の制服を着ていました。先生は厳しく、少しでも怠けたり欠席したりすると体罰を受けました。授業は整備されておらず、学校によって大きな差があったようです。それでも男の子は学校に行けるだけましでした。女の子は学校に行くことが禁じられていたのです。その頃、父は無職で家にいました。家で父から多くのことを学びました。

ディン・モハマド君は15才。彼の父親は字が読めず、教育に関心を持ったことは一度もありませんでした。ディン・モハマド君は、7才の時に伯父のすすめでクズカシュコートの男子小学校に入学しました。それを知った父親は「息子を学校に行かせるつもりはない」と言って、伯父と言い争いました。伯父は、親は子どもに教育を受けさせる義務があり、子どもの能力を最大限伸ばさなければいけない、と説明しましたが、聞き入れてもらえませんでした。