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第九回 運転手 シャー・ムハンマドさん

2015年度アフガニスタン事業インターン 竹村 謙一
2015年12月 2日 更新
真剣なまなざしで仕事に出発!真剣なまなざしで仕事に出発!

(アフガニスタンからサラーム、今回は第六回のナビ・ジャンさんに続き二人目の運転手シャー・ムハンマドさんを紹介します。多くの日本人が経験したことのないような過酷な時代を生きてきたシャー・ムハンマドさん、そのことばには重みがあります。現地から届いた英語の原文を訳しながら、わたしたち東京事務所スタッフも心を動かされました。)

つらかった子ども時代

私はナンガルハル県のザルショエ村カマ地区で生まれました。公務員をしていた父は私が3歳の時に亡くなり、一番上の兄が家族を支えるようになりました。私が3年生の時、ソ連がアフガニスタンに侵攻するという噂が流れ、人々はパキスタンに避難をはじめました。ソ連に対するジハード(聖戦)がはじまり、標的は政府関係者にも向かいました。公務員だった兄もムジャヒディン[注]から仕事をやめるようにと警告を受けるようになりました。

私はムジャヒディンが家にやってきて入り口のドアをノックした夜のことを忘れることができません。母はそれがムジャヒディンだとわかっていたので、子どもたちを起こし、藁の下に隠れさせました。そして決して泣いたりしないようにと言い聞かせました。もし声を聞かれたら殺されると。しかし母が私たちを藁の下に隠したとき、一匹のさそりが私を噛みました。私は叫びたい気持ちを必死でこらえ、痛みをがまんしました。ムジャヒディンは爆弾でドアを壊して家に侵入し、家財道具をすべて持って行ってしまいました。この事件のあと私たちはジャララバードに移りましたが、移動の途中で私は誤って川に落ちてしまったのです。3日後に家族が病院にいる私を見つけたということです。

やがて上の兄はバティコート地区で仕事を見つけ、下の兄は軍隊に勤めはじめ、私が13才で家族を支えるようになりました。ある日、私はバティコート地区に兄を訪ねるためバスに乗りました。40人くらい乗客が乗っていましたが、途中の道にしかけられた爆弾が爆発、30人が死亡、他の乗客も負傷しました。幸い私は無事でした。

[注]ムジャヒディンは、イスラム世界へ侵略する勢力に対抗してジハード(聖戦)を遂行する組織。「イスラム聖戦士」とも訳されます。

兄の死

やがて下の兄は軍隊をやめ、ムジャヒディンとなって聖戦に参加しました。私たちはパキスタンの難民キャンプに避難することになりました。一年後、聖戦に加わった兄は殉死し、私たち家族はアフガニスタンに戻りました。私はアフガン軍に入り、兵士として3年間勤めて兵役を終えました。その後私は小さな車を買い、運送の仕事を始めました。2002年から2004年まで保健関連のNGOで運転手となり、2004年からはJVCで運転手として働いています。

子どもは9人、男の子が8人、女の子が1人です。朝早く起きてお祈りをし、コーランを読みます。好きな食べ物は、カブリパラウ(Kabuli Palaw 羊肉、にんじん、干しぶどう、ナッツなどを混ぜて炊いたカブール風ピラフ)です。

JVCでの仕事

車を降りるとやさしい顔です。車を降りるとやさしい顔です。

私の一日を紹介します。朝早く事務所に出勤、車を掃除して一日の予定を確認したら職員を家まで迎えに行きます。事務所から活動地に向かい、現場を回ります。午後には職員を連れて事務所に戻り、各自の家まで送ります。その後、治安担当のサビルラさんとミーティング。安全状況、道路事情、交通情報、そして翌日の燃料補給などの打ち合わせをします。活動地から無事に事務所に戻ってこられた時が一番ほっとしますね。でも、職員を迎えにいっても時間通りに来てくれないと、いらいらしますよ。

日本の方々へ

アフガニスタンの人たちをこれからも変わらず支援してください。