アフガニスタン最新情報

ラーマッラーは11才、ザビルラーは9才、クズカシュコート村の小学校に通っています。JVCスタッフのアジマルさんが、二人に大きくなったら何になりたいか尋ねました。

ヘナ(写真左)とネダ(写真右)は大家族。お父さんには奥さんが二人いて、子供が10人います。両親は二人が学校に行くことをすすめました。ヘナは12才、ネダは11才です。二人とも学校の成績はとても優秀です。二人は仲良し、学校では助け合い、家ではお母さんの手伝いをよくします。
ヘナには家より学校が大切です。家に閉じこもっていたら何も学べないけど、学校ではたくさんのことが学べるから。夢は助産師になること。アフガニスタンでは、お金がなくて薬が買えない人、治療が受けられない人がたくさんいます。彼女はそうした人たちを助けたいと思っています。
ネダは学校に行って毎朝友達と遊ぶのがとても楽しみです。彼女は絵を描くのも柔道をするのも大好きです。でもお母さんといっしょに市場に行くと、家で燃やすためにプラスチックや紙くずを集めている子供たちを見て、とても悲しくなります。子供たちは、学校に行かずに朝から晩まで通りを歩いてごみ拾いをしています。空き缶や鉄くずを回収業者に売るためです。ネダの夢は学校の先生になること、そして女の子たちにいろいろなことを教えることです。だって、人は教育がなければ、実がつかない果物の木のようになってしまうから。
(今月はラマダンにあたります。日本人にとってなじみの薄いこのラマダンと断食について、JVCアフガニスタン事業ジャララバード事務所のサビルラ・メルムラワルさんに語っていただきました。)
ラマダン※注(1)はイスラム教徒にとってとても大切な一ヶ月です。自分の時間を使い、エネルギーを費やしてお祈りと断食をすることで、心を清め、自分をコントロールし、アラーへの帰依をめざします。アフガニスタンはイスラム教徒(ムスリム)が99%を占め、宗教的にとても厳格な国です。
ラマダンの期間中は、仕事の時間も変更されます。今年のラマダンは夏にあたり、気温45°Cの中で17時間近い断食をすることは楽ではありません。しかし、厳しい条件の下で断食を行えば、さらにアラーへ近づくことができるという信念があると、自然と力がわき、断食後の満足も得られます。
ラマダンの始まりと終わりの日時は、月の動きを元にしてサウジアラビアで決定されます。今年のラマダンは、午前2時45分から日没の午後7時までが断食の時間と決められました。断食は、お祈りの時間を告げる早朝のアザーン(Azan)で始まり、夕方のアザーンで終わります。断食に合わせて、食事は通常の朝・昼・晩の3回から、早朝と夜の2回に変わります。朝食は2時45分より前に食べ、夕食は夜7時過ぎに食べることになります。断食後の夕食は、イフタール(Iftar)と呼ばれます。ラマダンでは、13才以上の大人はすべて断食をしなければなりません。日中17時間は、何も口にしてはならず、さらに点滴で栄養補給をすることもできません。例外は入院中の患者さんや大統領くらいです(大統領は、いつ何が起きても対応できるようにしていなければならないので、断食はやらないとのことです)。
(今回紹介するのは、現地でも最も勤務歴が長いスタッフの一人、門番のデラワールさんです。)
私は43才、ナンガルハル県ホギャニ地区※注(1)で生まれました。ソ連軍がアフガニスタンに侵攻したのは私が6才の時でした。私たち家族は近くのスピンガル山地に逃げました。家もテントもなかったので、私たちは大きな木の下で6ヶ月間暮らしました。やがて戦闘が激しくなってきたため、私たちはパキスタンに逃げることに決め、三日間歩いてようやくサダ地区にたどり着きました。後にはペシャワールのホギャニ難民キャンプに移りました。10日間くらいは屋外で過ごしましたが、その後はテントと食料の支援を受けました。その後10年間ほど難民学校に通いました。
やがてアフガニスタンからソ連が撤退したので、私たちは国に戻り、ナンガルハル高校に通うようになりました。高校卒業後は経済事情が苦しかったためにそれ以上の教育に進めず、また家庭の事情から、再びパキスタンに移住し、16年間、様々な町で店員や警備員などいろいろな仕事をしました。
(今回紹介するのは、ジャララバード事務所で運転手をしているナビ・ジャン・ムリアカールさんです。趣味はクリケットとレスリングというナビ・ジャンさんに、これまでの人生について語っていただきました)
私は現在57才、ジャララバードの生まれです。父も運転手をしており、私は小さい頃からその手伝いをして、やがて運転手になりました。24才で結婚、4人の娘と4人の息子がいます。そのうち4人はすでに結婚し家族を持っており、最近ももう一人、息子が婚約しました。
JVCの事務所があるアフガニスタン東部のジャララバードの都市中心部で、4月18日、一般市民が少なくとも35名死亡、100名以上が負傷する大規模自爆攻撃がありました。
イスラム過激派組織「IS」に忠誠を誓う武装勢力が犯行声明を出しており、同国で「IS」が犯行声明を出したのは今回が初めてと言われています。JVC現地スタッフの親戚の方々もこの事件に巻き込まれ、また、私たちがまさに活動している村の人々も亡くなり、皆さんが悲しみに暮れています。JVCスタッフも負傷者の献血を手伝うため家族や知り合いを連れて病院に駆けつけ、対応しました。
- 「イスラム国」が初の大規模テロ=銀行前で自爆、35人死亡―アフガン (4月18日配信、時事通信)
- Afghanistan suicide bomb in Jalalabad leaves many dead (4月18日配信、BBC)
以下、ジャララバード事務所の治安/総務担当・サビルラから、事件当日に以下のメッセージを受け取っているのでご共有いたします。
2014年度を締めくくる3月最後の金曜日。JVCアフガニスタン事業のボランティアチームが中心となって、アフガニスタンの文化紹介イベント『春らんまん ~食べて、読んで、感じるアフガン~』を開催しました。
アフガニスタンの新年(3月21日)は「ナウローズ」と呼ばれます。この時期に合わせて、紛争の暗いイメージが付きまとうアフガニスタンの、人々の豊かな暮らしを紹介することを目的としました。食事を楽しみ、アフガニスタンを舞台にした物語を読みながら文化に触れるという内容で、企画、準備から当日の運営まで、ボランティアチームが見事なチームワークでこなしました。
アッサラーム・アレイコム!
今回紹介するのは、「庭師」として診療所と簡易診療所の庭の整備や管理を行っているカン・ミルさんです。現在推定55歳(正確な記録がないため)で、アフガニスタンの長い紛争を経験してきたカン・ミルさん、どのような人生を送ってきたのでしょうか?そしてJVCでどのような仕事をしているのでしょうか?
彼はJVCの事業地であるゴレーク村の農家に生まれましたが、早くに両親を亡くし、子どものころから牛飼いの仕事をしていたそうです。そして13歳の時には結婚し(相手の女性は9歳)、2人目の子どもが生まれたころにアフガニスタン内戦が始まり、家族と共にパキスタンの難民キャンプに逃れました。
最初はキャンプ内で日雇いの仕事をしていましたが、ある日難民キャンプ内の事務所の庭師の仕事を紹介され、そこで11年ほど庭師を勤めたということです。これがカン・ミルさんにとって庭師としての最初の仕事でした。その後もパキスタンのペシャワールにあるホテルで15年庭師をし、2009年にアフガニスタンに帰国、JVCで庭師として働くに至りました。学校には行ったことがなく読み書きは出来ないとのことですが、庭師としてのキャリアは32年にもなるのです!
2001年9月11日の同時多発テロ事件から、アフガニスタンは米軍主導の「テロとの戦い」の舞台となりました。それから13年以上経ち、昨年には新大統領を迎えましたが、現在もなお治安は改善せず、多くの民間人が犠牲となっています。JVCアフガニスタンでは、戦争で大きなダメージを受けた医療と教育の分野で活動しています。
2月、JVCアフガニスタンの教育事業を長年にわたって支援してくださっているWE21ジャパンの皆様に向けて、事業進捗の報告会を開き、都市部から遠い僻地の学校で行っている先生のトレーニング『授業研究』の今年度のハイライトをお伝えしました。
例えば、今年度は初めて女性の先生がこのトレーニングに参加したことなど、少しずつ教育の取り組みにも進展が見られてきました。(活動の詳細はこちら)
サラーム!
アフガニスタンではここ数年不安定な治安状況のため、日本人スタッフが事業地に駐在・出張できない状態がつづいています。では東京スタッフは普段どのような仕事をしているのでしょうか?今回は、現地・東京スタッフ合わせて30名以上を束ねるアフガニスタン事業小野山統括の一日に迫ってみたいと思います!
小野山統括の一日はパソコンでの仕事から始まります。現地の治安状況を確認したり、メール対応や会議資料の準備をしたり、現地スタッフからの活動レポートに目を通したり、日本の支援者の皆さんへの報告書を作成したり...と、仕事は次から次へとやってきます。
さて、今日はチーム会議がある日です。現在アフガニスタン事業に関わる東京スタッフは小野山統括を含め3人。それぞれが担当するプロジェクトの進捗状況やスケジュールの共有、トラブルや課題について議論します。アフガンチーム会議の他にも、東京スタッフ全員が参加するオフィス会議はじめ、日々様々な種類の会議が開かれています。