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初日
ガザに入って僕が最初に訪れたところは、ガザ北部のベイト・ラヒアの難民キャンプでした。去年の暮れから1月後半まで続いた一斉攻撃で家を失った90家族のためにテントが並んでいます。
1月15日、ガザの複数の関係者と連絡を取りました。通信状態が日に日に悪くなっているため電話が繋がらないことも多く、その度、無事か不安になります。
イスラエルのガザ侵攻が続き、毎日毎日何十人というガザの人が犠牲になっています。同じパレスチナの西岸の人々もガザの人々の身に降りかかる惨事に心を痛めている、と同時にイスラエルに対する嫌悪と怒りは募っているようです。しかし、私が耳にしたのは、その怒りを表現する機会が抑えられているという話の数々です。
久しぶりに出かけたエルサレムの街中は、人がまばらで何だか静かです。そして重苦しい空気につつまれています。目抜き通りのサラハディーンの八百屋では、いつも愛想のよい親父も、テレビにかじりつきです。私が「ガザね」というと、大きなため息と一緒に「ガザ」とだけ言って、また見入っていました。その表情はやるせない気持ちで一杯のように見えました。チーズやハムを売っているお店も、みんなの視線はお店の奥のテレビに注がれています。普段は世間話で賑やかな店内にどんよりとした空気が漂っていました。コーヒー屋の店主も、いつもの明るい笑顔が消えています。挨拶もそこそこに、視線は宙を舞っています。
JVCがガザで一緒に栄養失調児の支援を行うAEI(=Ard El Insan、人間の大地)代表のイテダルと話をしました。「今病院から戻ってきたところなのよ。義理の弟(妹のご主人)が重傷を負って、両足の一部を切断する手術を受けたわ。彼は負傷してから数時間、血を流して救助を待っていたのよ。でも何とか命は助かったの」と、辛いニュースから彼女は話し始めました。
「AEIのガザのセンターは今日、攻撃が始まって初めて開けることができたの。朝の3時間だけ、倉庫に残っていた食料の配給と、医師による子どもたちの治療をしたわ。いつものように栄養食の調理や提供ができる状態ではない。それでも、必要としている子どもたちがたくさんいるのよ」
1月12日、子どもの栄養改善事業でJVCが一緒に働く国際NGOのガザのスタッフ、モナさんと電話がつながりました。イスラエルは、国連安全保障理事会が採択した即時停戦決議を拒否し攻撃を続けており、現在、人口がより密集しているガザ市内にまで地上軍が入ってきています。モナさんはガザ市内に住んでいるのですが、昨日の夜は攻撃の音などで怯えて眠れなかったとのこと。
それでも今のところ彼女の住んでいる地域は比較的安全ということで、ガザ市周辺から親戚や知人を頼って人々が押し寄せているとのことです。電話がつながってからも、彼女の携帯電話は何度も鳴っています。
1月10日お昼ごろ、PMRS(=Palestinian Medical Relief Society、パレスチナ医療救援協会)ガザ代表のアブ・フーサ氏と電話で話しました。受話器の向こうから、戦闘機が空を飛ぶ音が聞こえてきます。心配する私に、「今、オフィスの窓から空を飛んでいる2機の戦闘機が見えるよ。遠いから大丈夫」と明るく言いますが、その声には気丈に振る舞っている空気も感じられます。
UNRWA(United Nations Relied and Works Agency=国連パレスチナ難民救済事業機関)の学校が攻撃され、そこに避難していた40人以上の人々が犠牲になったというショッキングな出来事があった翌日。AEI(Ard El Insan=人間の大地)のガザとハンユニスセンターのスタッフと電話で話しました。