イラク・ヨルダン現地情報
7月中旬ともなると、高地で比較的気温の低いはずのアンマンでも暑さが盛りです。日本への一時帰国の後、6月中旬にヨルダンのアンマンに入り、隣国のイラクへ支援の薬品と機材を送り出す作業を続けています。
ファルージャからの避難民の支援はイタリアのNGO、InterSOSに実施を委託し無事に終わりました。さらに食料配給を2日延長して行ったため最終的な受益者は1315家族になりました。

ファルージャ救援の第2弾が進みはじめています。食糧配給プロジェクトでは、第1弾と同じく、イタリアのNGOであるInterSOSの協力を得ています。このNGOは、昨年からファルージャ近郊での活動を進めていて地域の理解を得ており、また、市内にイラク人ローカルスタッフも住んでいます。今回は、軍事衝突が終わり避難民のファルージャ市内への帰還が進む実情に合わせて、支援対象をファルージャ市内に戻った元避難民としています。
JVCの緊急救援第一弾であるファルージャからの避難民への支援がほぼ終了しました(おかげさまで一週間で約100万円が集まりました)。当初は4日で終了する予定でしたが、4箇所のバグダッドのモスクに食料や医薬品を運び込むのに6日かかりました。
初日(17日)は、500家族分相当の抗生剤などの医薬品をカーク地区のスーファモスクに届けました。ここにはイラク赤新月社の野戦病院が作られています。19日は同じモスクに食料などをやはり500家族分届けました。20日〜24日の4日間はべつの3箇所のモスクに食料を配給しました。これで合計1040家族に一週間分の食料が配給されることになります。
4月18日、バグダッドで活動を続けていた原文次郎がエア・サーブ定期便で無事にアンマンのマルカ空港に到着し、一足先に東京から応援に駆けつけた佐藤真紀と合流しました。2週間の滞在中、治安悪化や人質事件など緊張が続きましたが、原は健康状態も異常なく元気でした。
大阪での講演の後、滋賀県まで足を伸ばした。大津の近くの山の中にあるMIHOミュージアムである。
「『子どもたちのイラク』(岩波ブックレット)に、イラクの人たちはメソポタミア文明を誇りにしていると書いてあったので、思いついたのです」
学芸員の駒井さんは中学校の人権教育でイラクを取り上げたという。
マンスール教育病院に行くと、Drマーゼンが忙しそうに
「これからCPAの人たちが来るので…」
と打ち合わせが中断になった。病室に林医師を案内していたら、CPA関連やアメリカのガン協会のお偉いさんやらがどかどかとやって来る。みんな防弾チョッキを着ているし、銃を持った護衛がついている。
「病院の中でも彼らは狙われるんだろうか。だとすると危なくてしょうがない。流れ弾でも患者に当たったらどうするんだろう。」
と首をかしげてしまう。
フォトジャーナリストの森住卓さんが1998年に撮影したサファアという女の子の写真がある。5年たった今、彼女は元気に学校に通っているという。
イラクでは白血病になると1年くらいで死んでいく子どもが多い。サファアは、治療が成功した例だ。
ガンや白血病の小児病棟の支援活動の中で、医師の要望を尋ねることが多い。しかし、一方通行の「与える」支援になっていないか、これで良いのかと考え込むこともある。
支援の薬品は安価なものではなく、購入資金が日本での寄付である以上、予算枠から必要十分な量の薬を購入できずに悩むこともある。