南相馬日記
風薫る、5月。南相馬の、寒くもなく、暑くもない、過ごしやすい季節を迎えたある日。つながっペ南相馬とサロンを運営している、鹿島区の西町第一仮設住宅を訪れた。
西町第一仮設住宅は、区役所や復興商店街から近く比較的便利な場所に位置しているので、散歩を楽しむ人も多い。集会所前に車を置き、いつものように入り口に向かおうとすると、仮設住宅の奥の方からサロン管理者の松本さんが手押し車を押すご婦人二人とゆっくり、ゆっくり、歩いてくる。
サロンに来るのかな、と思って見ていると、途中にあるゴミ集積所の脇で止まり、どっこらしょっと声が聞こえてくるような仕草でお二人と一緒にベンチに腰を掛けた。
松本さん:「Tさん、サロンに行かないの?」
Tさん:「あんまり行ったこと無い。いいんだ、ここで。」
松本さん:「確か、お孫さん、東京の方に行ってんだよね。」
Tさん:「良く知ってるね。そう、この4月に千葉県の松戸市に就職したの。」
谷山:「そうなの、よかったね。」
屈託ないやりとりに、気がつくと私も自然に仲間入りしている。
「こちら、臨時災害放送局、南相馬ひばりエフエムです。」
毎朝9時になると聞こえてくるラジオの声。「ああ、今日も一日がんばろう」、スタジオにいるいつの頃からかマイクの前に座る声の主を思い浮かべながら、その日の予定を確認するのが南相馬での日課になった。月曜日から金曜日までの朝9時、昼の12時、夕方5時からの生放送で市内の情報や放射線量のモニタリング結果を、フリートークを交えながら生放送するほか、放射能に関する相談番組など自主制作番組や他局の番組を組み合わせ放送しているのが他局とひと味違う。している。2年前JVCも応援しの開局されて以来、紆余曲折を経ながらも着実に歩みを進めてんできた、JVCもずっと応援してきた臨時災害放送ラジオ局。そのラジオ局が、いま新たな試練を迎えている。
昨年1年間、毎月10日間程南相馬市に滞在し支援活動を行ってきたが、その間放射線量を測り続け、結果、年間積算被ばく量1.37ミリシーベルトという値が出た。国際放射線防御学会(ICRP)の勧告によると、事故などによる一般公衆の被曝量(自然放射線と医療行為による被曝は含めない)は年間1ミリシーベルトとされ、放射線防御の目安としている。最近、住民の帰還を阻むとして緩和が取り沙汰されている除染の目標値もこの値だ。根拠は、「累積で50ミリシーベルトの被曝で、癌になる人の割合が0.5%増える」という経験値と「大人は50年生きる(子どもの場合は70年)」という前提から導かれたものだと聞く。(註1)
2006年、いわゆる「平成の大合併」で原町市・小高町・鹿島町の3市町村が合併して福島県南相馬市が生まれた。その境が、東日本大震災で起きた福島第一原子力発電所の事故後の避難区域分けと重なった。原発から半径20キロ県内で警戒区域となった小高区(旧相馬郡小高町)と原町区(旧原町市)の一部は、事故後1年近く帰宅することが許されなかった。その後区域が再編され、昨年4月からほとんどの地域が日中のみ帰宅できるようになった。しかし、インフラの整備や除染の遅れが今も本格的な帰還を阻んでいる。
除染作業で出たごみの集積場所となる仮置き場の候補地が周辺住民の反対で決まらなかったことが、遅れの主原因。現場は仮置き場を大規模1ヶ所ではなく地域割りで複数箇所にすることで設置に向け準備が進められている。
2013年のクリスマスに、JVCの支援している南相馬市の寺内塚合仮設住宅でクリスマス会が開かれました。35名前後の住民の方々が集まり、賑やかにクリスマス会が開かれました。
「あと3年近く小高に戻れないことがわかっています。せまい仮設住宅暮らしもまだしばらく続きますが、みなさんと一緒に楽しいひとときを過ごしながら、乗り切っていきましょう」という自治会長さんの挨拶に、参加したみなさんの胸の内はわかりませんでしたが、何か、運命共同体のような不思議な結束を感じました。
ある日、寺内塚合仮設住宅のサロンに着くと、「今野さん(JVC協力団体"つながっぺ南相馬"代表)がやいてくれたCDがあるから聴くか」と住人の方に尋ねられました。返事を返す間もなくCDがセットされ、音楽が流れ出しました。
サロン管理人の藤さんが曲について教えてくれました。
「これは、ここの仮設にお住まいのSさんという人が作詞して、プロの方がボランティアで作曲してくれた歌です」
サロンに来ている人たちも、「いい曲だねえ」といいながら聞き入っていました。曲は3番まであり、2番、3番と秋や冬の小高の情景が謳われ
「帰りたい、帰れない、あゝ、ふるさと小高」
の節になるとみんなしんみりとしてきます。サロン管理者の藤さんがお茶を淹れながら鼻をすすっているのがわかりました。
この歌に、小高に帰りたいけれど帰れない人たちのおもいが込められていることが伝わってきました
南相馬市の臨時災害放送局、ひばりエフエムには、JVCが立ち上げに関わりスタートした英語の番組"CommuniKate(コミュニ・ケイト)"があります。放送時間は、金曜日の夜10時半からの30分間です。7月の17日に、第8回目の収録が行われ、私もそこに参加してきました。
今年4月5日から始まったこの番組のタイトル"コミュニ・ケイト"は、心を通じ合わせるという意味の"コミュニケート"とパーソナリティのケイト・オバーグさん(米国出身)の名前をもじってつけられました。ケイトさんは米国オレゴン州ペンドルトンの出身で、7年前から南相馬との縁が始まったそうです。当時高校生だったケイトさんは、交換留学生として初めて来日し、数ヶ月南相馬市に滞在しました。
初めはホームシックになって何度も米国に帰りたいと思ったそうですが、少しずつ友達が増えホストファミリーとも家族のように触れ合うようになり、南相馬が大好きになっていったそうです。その南相馬が地震で被害に遭ったと聞いたとき、いてもたってもいられず地元のペンドルトンで募金集めをし、ボランティア活動のためにふたたび南相馬にもどることを決めました。
七月中旬、東京下北沢にある「ふくしまオルガン堂下北沢」で、JVC福島担当谷山由子を聞き手に、福島県二本松市の有機農家・菅野正寿(すげのせいじ)さんのお話を聞く会が開かれました。
「ふくしまオルガン堂下北沢」は福島の有機野菜をふんだんに使ったオーガニックカフェ兼産直販売所。福島有機農業ネットワークが今年の3月に福島と首都圏の架け橋になれば、と開きました。
会は「TALK&LUNCH」と名付けられ、福島の野菜をふんだんにつかったカレーが出されました。美味しいランチを味わった後、菅野さんの話が始まりました。
7月というのに長袖が必要なほど涼しい朝8時、集合場所のサンライフ南相馬駐車場には既にマイクロバスが待機していました。この日は、仮設住宅で常設サロンを運営していているつながっぺ南相馬が企画した石巻ツアーの日です。仮設住宅に暮らす旧警戒区域の小高区や津波の被害に遭った原町区、鹿島区の方々が移転を考える時に、行政や業者任せでなく自分たちで住みやすい住宅を選べるよう、実際に安価で快適な住宅モデルを建てた石巻の港町を見学に行こうと、今回のツアーが企画されました。
マイクロバスが次の集合場所である仮設住宅近くの鹿島区役所を出発したのが8時15分。最初の目的地、石巻大橋団地仮設住宅に着いた時は、10時30分を過ぎていました。集会所には、こちらから参加した16名を含め津波被害に遭われた地元の方々を合わせ40名近い人たちが集まり、現状や今後の暮らしについて情報を交換しました。
4月10、11日の2日間、JVCのラオス人スタッフとカンボジア人スタッフが南相馬を訪れました。
1泊2日と駆け足の滞在でしたが、印象に残る訪問になったようです。2011年3月11日のあの出来事以来、ずっと気にかけてきた福島に行けたこと、そして、みんなやっと会議から開放され、福島の地元の方々と触れ合い久しぶりに農作業で身体を動かすことができたことが、その理由だったようです。
そもそもは、2年に一度の「JVC代表者会議」に参加するのが来日目的だったのですが、現地のスタッフに日本の現状を知ってもらおうと、事業担当者が南相馬ツアーを企画しました。参加者は、ラオス人スタッフ2名とカンボジア人スタッフ2名、さらに東京の各事業担当と現地からスタッフと同行したカンボジア駐在の日本人スタッフ、そして元ホームページ・インターンと私の合計9名でした。東京-南相馬間の移動は、全員が1台の車に乗り込むという大所帯になりました。