\n"; ?> JVC - 「福島の有機農家からお話を聞く会」報告 - 南相馬日記
2013年8月13日

「福島の有機農家からお話を聞く会」報告

震災支援担当 白川 徹
2013年8月13日 更新
下北沢にある「ふくしまオルガン堂下北沢」下北沢にある「ふくしまオルガン堂下北沢」

七月中旬、東京下北沢にある「ふくしまオルガン堂下北沢」で、JVC福島担当谷山由子を聞き手に、福島県二本松市の有機農家・菅野正寿(すげのせいじ)さんのお話を聞く会が開かれました。

「ふくしまオルガン堂下北沢」は福島の有機野菜をふんだんに使ったオーガニックカフェ兼産直販売所。福島有機農業ネットワークが今年の3月に福島と首都圏の架け橋になれば、と開きました。

会は「TALK&LUNCH」と名付けられ、福島の野菜をふんだんにつかったカレーが出されました。美味しいランチを味わった後、菅野さんの話が始まりました。

福島の野菜がたくさん入ったカレー福島の野菜がたくさん入ったカレー

「田んぼと桑畑が一面に広がる、これが私たちのふるさと風景です。かつては県内有数の養蚕地帯でした。田舎が嫌で東京へ出ていたんですけどね。結局は住む場所ではないな、と感じて戻ってきました。ちょうど生糸や牛肉の輸入自由化で農家が激減し、農地が荒れ始めている時でした。ふるさとの風景をずっと残していきたい、NPOを立ちあげて農業や地域活動に取り組んでいました。」

そこで起きた原発事故。

「ちょうど里山を再生する事業を始めようと思っていた矢先です。ここの地域では里山の山菜類が地域の食を支え、落ち葉を堆肥に利用してきました。原発事故はただ驚きと恐怖。農作物からも次々に高い数値の放射能が検出されました。わたしたちの里山も田畑も桑畑もことごとく汚れてしまった。その時の悔しさと怒りといったら...。言葉にならないです。」

「出荷制限などが出される中で、作付けをしていいか不安でした。東京電力本社に抗議活動にも行きました。そこでキャベツの出荷制限のあとに自ら命を断った有機農家の奥さんがいました。夫は原発に抗議するために死んだ...その言葉を聞いて涙が止まりませんでした。そして決意したんです。津波で被災された方々の無念と避難して農業ができない苦渋を思い、種を播こうと。」

不安と苦悩の中、菅野さんは農業を続けていくことを決断しました。

福島県二本松市の有機農家・菅野正寿(すげのせいじ)さん福島県二本松市の有機農家・菅野正寿(すげのせいじ)さん

「ガイガーカウンターで草の上を測ると1.5マイクロシーベルトでした。草を刈り、堆肥を土がセシウムを固定して吸着するらしいのです。ここで出来た震災後一年目の大根の放射性セシウムは17ベクレル(1kgあたり)でした。」

「野菜や米の流通業者の中には損害賠償をもらってるからいいだろうと言い、価格を安く買い取られる現状がまかり通っていますが、とても悔しい。私たち農民は米や野菜だけを作っているのではない。里山があって田んぼがあって、トンボが飛んでいるというようなその風景を作ってきたのは農民なんですよ。ここから逃げるべきだ、という意見もあります。ただ、ここに人がいなくなったら、誰が福島を再生するのか。原発を受け入れたのは我々の世代なんです。だからこの土地を再生させるのは我々の責任なんです。脈々と続いてきた農地を私たちの世代で絶やすことはできない、耕して種を撒いて前に進まないと。」

ようやく希望の光りが見えてきたが、それでもまだまだ状況は厳しいと言います。

「ワラビ、たけのこ、コシアブラなどが400~500ベクレル、高いものもあります。山の汚染は相当深刻です。2年前に降った落ち葉が湿気で腐ってカビ菌が生え、カビがセシウムを吸ってそこで育ったので数値が高いのでしょう。梅・栗・柿も数値が高くて50ベクレル以上出ているものもあります。乾物の干大根、干し柿、干し芋これはまだまだ厳しいです。乾すと水分が飛んでセシウムが凝縮されます。」

「きちんと健康診断と調査を行うこともこの地で農業を続けるにあたって重要です。2010年から娘も一緒に農業しています。一旦は福島を離れましたが戻ってきました。その娘のことがとても心配だった。原発事故半年後に3回ホールボディーカウンターを受け、3回目で不検出になりました。ひとまず安心しました。でも不検出と言ってもゼロではないのです。本当に安全なのかが研究者でもわかっていない。この不安は今後もずっと続きます。」

福島で生まれ育ってきた菅野さんは都市部と地方の社会のあり方にも疑問を投げかけました。

メモを取りながら話を真剣に聞く様子(写真左:菅野正寿さん)メモを取りながら話を真剣に聞く様子(写真左:菅野正寿さん)

「戦後、福島は高度経済成長期のもと、都市部への食料と労働力の一大供給地になりました。高速道路、高層ビル、新幹線に労働力を奪われ、冷害と減反に苦しみ、『商品』として買い叩かれた。そういう場所に原発が立地されました。福島第一原発の電力は福島県では全く使われていなかった。原発事故をきっかけにこの社会の構造を見直していかなければならないと思います。放射能の問題は福島だけでは解決できません。福島と都市をもっと深く繋げて、多くの人に考えてもらいたい。」

トーク・セッションの後、会場内で質問が投げかけられ、交流会も行われました。

JVCでは今後もオルガン堂と協力してイベントを開いていく予定です。