この5月、イスラエルは建国60周年の記念行事に沸いています。7日夜には全国各地で建国前夜(イスラエルの暦は太陰暦を基本に調整をするため、祝日も毎年変わります)の祝賀フェスティバルが行われ、明け方まで、花火の音、コンサートの音が鳴り響いていました。一連の記念行事は一週間ほど開催される予定で、ブッシュ米大統領も14日に訪問し記念行事に参加することになっています。
一夜明けた8日、イスラエル国内でもう一つの記念行事が始まりました。イスラエル国内のパレスチナ人によるナクバ60周年記念行事です。イスラエルが「独立戦争」と呼ぶ1948年の第一次中東戦争前後に、パレスチナ人の四分の三は虐殺、追放、あるいは一時的避難を強いられ、戦争が終わっても家や村に戻ることが許されず、その多くが今でも難民キャンプに暮らしています。混乱の中で家族・親族も各地・各国にバラバラになり、パレスチナの社会は完全に分断されました。この悲惨な出来事をパレスチナ人はナクバ(大惨事)と呼びます。
後にイスラエルとなった地域に踏みとどまったわずかなパレスチナ人は現在では150万人ほどで、イスラエル人口の約2割を占めています。イスラエルは彼らのことを「パレスチナ人」という呼称を避けて「イスラエル・アラブ」と呼びますが、彼らは自分達のことを「48年パレスチナ人」と呼びます。そして48年パレスチナ人の中には、イスラエル内に留まったにも関わらず、西岸やガザあるいは他国に離散を強いられたパレスチナ人難民と同様、彼らの住んでいた村から追放され、農地を奪われ、生活の糧を失い、いまだに自分たちの村や土地に帰還が許されないどころか帰還権を認められていない「国内避難民」が25万人以上いるとされます。
イスラエル建国記念日の今日、400以上ある破壊され地図からも名前が消えた「失われたパレスチナの村」の一つ、ミスカでナクバの記念行事が行われました。テルアビブから北東に車で30分ほどに位置するこの村に、かつての住民とその子孫が集まり、この村の名前を記したプレートを残すのです。この行事を主催したのは、イスラエルの団体ゾフロットで、イスラエルの現在の町や村や公園にかつてのパレスチナの村の名前を残し記録することを通じて、イスラエル人に自分達の町や村がパレスチナ人の奪われた土地の上に立っている事実の認識を広めるための活動をしています。

国道沿いでバスを降りると、大きな古い井戸の跡がありました。ロバを使って水を汲みあげ蛇口から水が出るようになっていたこの井戸のおかげで、ミスカの人たちは貴重な水源を確保できたのでした。国道の向かいはフェンスに囲まれ、今ではキブツの農地になっています。

でも、フェンス沿いにはぎっしりと、ちょうど黄色い花が満開のサボテンが繁るのが目に着きます。パレスチナの村は居住地の回りにサボテンを植えるのが常だったことから、ここにパレスチナ人の居住地があったことがわかります。厳しい環境でも生き抜く力があるサボテンは、パレスチナ人の強さの象徴でもあり、破壊された村の生き証人でもあるのです。
私たち一行が会場に到着したとき、ミスカ村出身者とその子孫が集まっていました。用意されたゴザとプラスチックの椅子に、イスラエルのユダヤ人と48年パレスチナ人が一緒に座り、土地の人が話し始めました。
お父さんが村の出身だという男性が、お父さんから聞いた話を語りました。
「1948年、父は10歳でした。当時のミスカ村はすでにユダヤ人入植地に囲まれていましたが、村と入植地の関係は良かった。パレスチナ各地の村が襲われ始めたとき、周りのユダヤ人はミスカ村は大丈夫だと言ったそうです。しかし、ユダヤ人の攻撃が激しくなり、逃げた方が良いと言われたそうです。当時村に住んでいた200家族は、まず近くのティラ村に逃げました。そこも治安状況が悪化し、多くはカルキリアやその先に逃げて難民キャンプに暮らし始めました。でも、自分達はティラになんとか残りました。でも親戚は各地にバラバラなってしまいました」
もう1人の男性が語りました。
「村人が追放された後、1952年にミスク村は破壊されました。破壊を免れた建物はモスクと学校だけです。でも学校跡は2006年7月に取り壊され、その跡に他の没収された土地同様に植林されました。私たちは学校の再建築を計画しましたが、建築しようとした者はイスラエル当局に逮捕されました。当局は、この地域が考古学調査対象地区だから建築は違法だとしています。48年パレスチナ人にもナクバはこうして今も続いているのです」
48年パレスチナ人でイスラエルの国会議員のスピーチもありました。
「私達は将来について語りたい。しかし、過去に起きたことはイスラエルが言うように回避できなかったものではなく、私たちに押し付けられたものなのです。将来を語るには歴史の相互認識と間違いの承認そして協力が必要です。建国70周年には過去が苦しみだけでないものになっていてほしい」と語りました。
村出身の78歳のサフィアおばあさんの話を聞きました。
「1948年4月末に村が攻撃されたの。私は18歳だった。とても怖かったわ。私たちは取るものも取らず近くのティラ村に逃げたの。そこで野外生活したのよ。テントもなかったの。でも今度はティラへの攻撃がひどくなって、私たちはカルキリアに逃げたの。だけど、なんとかティラに戻ることができたわ。でも私たちの家があるミスカには戻れなかった。いまもよ」

「見て、この周り見渡す限りミスカの村だったのよ。はるか遠くまでオレンジやレモンの木で一杯だったの。今では全部キブツになっちゃったけど」

ひとしきり村の人の話を聞いた後、村の名前をヘブライ語、アラビア語、英語で書いたプレートを木に打ち付ける儀式で会は締めくくられました。私たちが帰ろうとすると、子供達が見送りに来てくれました。難民(国内避難民)3世でしょうか。彼らが大人になるころには、村に帰還できるようになっていてほしいと、無邪気な彼らの笑顔を見ながら願いました。

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