ODAのプロサバンナ事業に関する連載。5回目の今回は、ODAの事業プロセスにおいて住民対話を保障する仕組みについて指摘する。NGO 側は、以前からこの仕組みをプロサバンナ事業に対して適用することを求めてきたのだが、それはまだ実現していない。(編集部)
事業を中断しない理由は
プロサバンナ事業について外務省と意見交換会を続けて、すでに一年が経った。この間、事業の目的が「小農支援であることを確認できたことは前進だ。しかし、それに伴って様々な問題も浮き彫りになった。曖昧だった目的が明確になったことで、隠されていたものが可視化され、「言っていること」と「やっていること」のギャップが明らかになったのだ。そのひとつが、対話のあり方だ。特に援助事業の場合、対話は事業の目的(援助を受ける者のニーズ)と内容(援助する者の活動)を整合させる上で必要なものだ。その不備を修正するには事業の中断が当然だと思う。
しかし、優秀な「官僚」の発想は違う。事業を走らせながら対話のあり方を改善する、というのだ。まるで、加速する列車を走らせたまま、線路脇にたたずむ人々の声を「丁寧」に聞いていくアクロバティックなことができると言う。あるJICA幹部は「中断したら再始動できない」と宣っていた。運転席には座っているが、どうもアクセルの踏み方しか知らないようなのだ。暴走列車あるいは冷却コントロールが効かなくなった原発と同じだ。奇妙な自信を持つ相手に「暴走」を止めてもらうにはどうするか?『白熱教室』で有名になったサンデル教授の引用を思い出す。「大勢を救うための一人の犠牲は正当化できるか。」「暴走列車」に乗せられた多数の農民を救うために、列車に身を投げる犠牲者が必要なのだろうか。
活用されない仕組み
止めるメカニズムがないわけではない。ODAには、計画段階で住民対話を保障する仕組みとして「環境社会配慮ガイドライン」(以下、環境GL)がある。環境GLは適用する際、まずスクリーニングと呼ばれる予測される影響の大きさに応じた「カテゴリー」分類のプロセスがある。「A」が最も高く、その後、「B」「C」と続く。「A」では必ず行なわなければならない住民対話が、「B」では「必要に応じて」となる。プロサバンナは「B」だ。訝しむ人もいるだろうが、スクリーニングはJICA自身が行なうため、低めの分類となるのだ。私たちはこの一年間、事業の規模や影響の大きさから、プロサバンナのマスタープランはカテゴリー「A」に分類されるべきと一貫して主張してきた。微力な市民が大きな山のような政府を動かすにはテコが必要なのだ。環境GLはテコの支点になる。それを、カテゴリー「A」として強固にする必要があるのだ。
そして、環境GLは「必ずしなければならない住民対話」ができていない時、住民(農民)がJICAに対して「異議申し立て」をすることができるようになっている。私たちは、JICAが〇八年に環境GLを改訂する際、散々議論して世銀のインスペクション・パネルにならったこのメカニズムをつくっておいた。異議申し立てが行なわれれば、きちんとした対話があったかどうかなど改めて詳しく審査することが必要になり、そうなればかなりの時間と手間がかかるので、事業を停止する可能性ができるのだ。
しかし、異議申し立ての事例は未だない。その理由は、一つにはこれまでJICAもガイドライン違反をしたことはなく、またほとんどがカテゴリー「B」に分類されてきたからだ。そして何より、異議申し立ては、現地住民に大きな負担を強いるため、そこまで踏み出すケースが少ないのだ。申し立ての文書作成から審査への対応まで、現地住民には多大な事務負担がかかる。異議を申し立てれば、政府や事業に賛成する者たちからの反発も予想される。そのことを考えれば、私たちも安易に農民に「異議申し立てができます」とは促せない。彼らにそこまで大きな負担と不安を背負わせるよりも前に、事業を促した日本側で事業見直しのための中断の判断をするべきなのだ。それが日本の責任だろう。
日本の援助は日本の責任
私は、この異議申し立てについて考える度に、六月に来日した農民代表のマフィーゴさんの姿を思い出す。農繁期の中、心臓が悪いにもかかわらず、中止を訴えるために地球の反対側まで来たマフィーゴさんの肉厚の大きな手は小刻みに震えていたのだ。優しい彼なら、頼まれれば異議申し立ての先頭に立つだろう。しかし、そこまで彼を追い詰める日本の援助とは一体何なのか? 他人の土地に押し入り奪った大豆でつくった豆腐や醤油を喰らう日本人とは何なのか? そういう日本を取り戻そう」とする今の政治は何なのか? プロサバンナは、単なる一事業の問題ではない。
