イラク戦争の傷跡は大きく、今でも戦争は終わっていないといえるだろう。ヨルダンの国境の町、ルェイシッドの難民キャンプでは、800人あまりの人々が「難民」となり、キャンプでの生活を余儀なくされている。また、そのおよそ半数が18歳以下の青年および子どもである。
アンマンからルェイシッドに向かう道のりは、砂漠、砂漠、そして砂漠。途中、砂の竜巻、そして蜃気楼が見える。炎天下の中、それをオアシスだと錯覚してしまった古代アラブの旅人の気持ちを理解できるほどの、美しい蜃気楼だ。

午後にキャンプを訪問すると、暑さのためか人影はまばらであった。灼熱のキャンプに設置してあった2台のステンレス製の滑り台は、ぎらぎらと強く光に反射し、遠くから見ると、さながら太陽光パネルのようであった。
UNICEFの学校用テントを訪問するが、閉鎖している。聞くところによると、子どもたちの間で、何やら病気がはやっており、一時期学校を閉鎖しているそうだ(のちに、キャンプで医療活動を行っていたジャパンプラットフォームの看護師さんに確認したところ、A型肝炎の流行の疑いがあるそうだ)。
近くの守衛用テントでは、どこかの親父さんが大きな音を立てて、アラブ音楽を流していた。私たち訪問者に気がついた親父さんは、私たちを快く迎えてくれた。しかし、余りにも暑いので、テントの中に入ることを私たちは拒んだ。「"MY HEART"というパレスチナの歌を聞いていたのだ。ヨルダンでは放送することが禁止されている、故郷の都を思うパレスチナの歌さ」と親父さんはごきげんだった。
アラビア語通訳の石垣ボランティアが、親父さんに、「彼女の名前は、マディーナ(聖なる都)」と私のことを紹介した。すると、親父さんは、日よけのためにパレスチナのカフィーヤをぐるぐる顔に巻いている私を見て、「おお、そうか、そうか」と大げさに喜んだ。
この難民キャンプに住むほとんどの人が、イラク国内でサダム政権下の保護下にあったパレスチナ人なのだ。旧政権の転覆後、彼らはイラク人たちに迫害されたり、また迫害を逃れるために再び、「故郷」を捨ててここまでたどり着いた。
キャンプの中の井戸では、人々が集まり水汲みをしたり、洗濯したりしている。外国人の私たちの存在に気づいた人々は、私たちにいろいろと訴え始めた。26歳のパレスチナ人、マハムード・サーミルは「そうか、君たちはバクダッドのナーディ・ハイファ(ハイファクラブ:バクダットのパレスチナ難民キャンプ。サダム政権転覆後、迫害を受け逃れてきたパレスチナ人たちの難民キャンプ)を知っているのか。僕の母親はそこに住んでいるのだ。母親と離婚した父親はヨルダン国籍を持っているパレスチナ人だから、何とか母親も僕もヨルダンに住めるように、父親にお願いしているところなのだ」と話す。何世代に渡って、パレスチナ人たちは難民キャンプ暮らしを余儀なくさせられるのか、と思う。
熱さが、靴の下からじわじわと湧き上がってくる。それでも、人々の陳情は続く。キャンプのリーダー格らしき人物、バッサーム・アブ氏は、キャンプの状況がいかにひどいものか訴え始めた。
「私の5歳の甥、ムハンマド(仮名)は、白血病を患っており早急に治療が必要でした。治療の必要性をUNICEFやUNHCRに訴えたが、治療を受けるための話は、なかなか進みませんでした。私たちは、国連の対応を不満に思い、陳述書を作成し提出する予定です。甥っ子は、その後ヨルダンの人権委員を兼ねている議員の助けを得て、今はアンマンで治療を受けることができました」
「アンマンに帰るのでしょう? 出来ればムハンマドが治療を受けている病院へ、彼を訪ねて行ってください」と彼は話を締めくくった。石垣ボランティアと私は、「インシャアラー(全力を尽くす)」と返事をし、彼と別れた。
キャンプで暮らす人々の生活は言うまでもなく、過酷だ。あまりにも過酷で、現在70名ほどの人々が、イラクに「自主的帰還」をすることをUNHCRに申し出ているということだ。現在、ヨルダンのUNHCRは、イラクの治安も考慮しつつイラクのUNHCRとイラクのアメリカ占領軍と連絡を取りつつ、彼らの帰還について話を進めているという。しかし、その過程を待てずに、すでに2家族、7人のパレスチナ人は、彼らの責任下において、イラクへ帰ってしまったという。イラクへ帰還したとしても、どんな暮らしが彼らを待っているかは、誰にもわからない。いつまでもいつまでも続く、彼らの苦悩を私たちはどう受け止めたらいいのだろうか、と思う。