\n"; ?> JVC - 自らの難民経験から(2)~インティサールさんが語る難民生活~ - イラクウォッチ

自らの難民経験から(2)
~インティサールさんが語る難民生活~

JVCイラク事業チーム補佐 中野 恵美 イラク事業担当/アフガニスタン事業担当 池田 未樹
2016年7月14日 更新

前回より続く)

私が生まれた1966年、この国はバース党政権下にあり、私たちクルド系の家族は政府から数々のいやがらせを受けていました。クルド系の名前をつけることも禁止されており、学校ではクルド系であることを隠していたことを覚えています。私の名前はアラブ系の名前で、それは私にとって大きな問題ではないのですが、現在、クルド地区の検問所で確認を受ける時に「なぜアラブ系の名前なのにクルド系なのか」と聞かれます。アラブ系の人々は、治安上の理由から検問所を通ることができないからです。

学校に通っている生徒たちは、強制的にバース党に参加させられました。私たち子どもには、バース党に参加するということの意味がわかりませんでしたが、そうしなければ、生活する上でのさまざまな権利を失い、大学には行けず、よい仕事に就くこともできませんでした。

クルド系に対してだけでなく、トルコマンや(イスラム教)シーア派の人々にも、同様の施策が取られました。

だから、アメリカがイラクの人々を救いに来た時には、人々は喜び、アメリカが悪の旧政権を追い出してサダム・フセインから解放してくれると考えました。誰も、状況がもっと悪くなるとは思わなかったのです。
1991年、湾岸戦争時にアメリカと多国籍軍がバグダッドを攻撃した際、フセインは人々にバグダッドから退避するように要請し、人々は、空爆を避けるために逃げざるを得ませんでした。当時私はバグダッドに住んでいて、おなかに赤ちゃんがいたので、安全なところで出産するためにどこかへ避難しなければなりませんでした。今後どうなるのか誰にも分からず、私には病院と医療ケアが必要でした。
私たちは、親戚を頼ってバグダッドの南にあるカラル(Kalar)という街に行き、状況がよくなるのを待ちました。そこでは仕事もなく、お金もあまりなかったので、本当に必要なものだけに慎重に少しずつお金を使う苦しい日々でした。1991年2月25日、私にとって2人目の子どもである息子を出産しました。こんな状況で産むことになるとは思っていませんでしたが、神様のおかげで、お産は軽く、診療所はとても寒かったけれど、それでもお医者さんがいたことは幸運でした。私は自由で、命が助かり、ぶじ赤ちゃんを授かることができたけれど、これからこの子を守っていけるだろうかと考えました。

出産して20日後、大きな爆発で起こされ、人々は町から避難を始めました。イラク軍とクルド系民兵組織の戦闘が始まったのです。私たちも、少しの食べ物と毛布を持って急いで避難しなければなりませんでした。フセインに攻撃されるのは初めてではなかったので、みな慣れてはいました。安全な道路はなかったけれど、子どもたちを連れて、銃と攻撃を避けるためにどこでもいいから逃げようとしました。
やっとのことでイランとの国境にたどり着き、古い軍のバラックを見つけ、何日かそこで過ごしました。でも、水も食料もなく、そこも安全とはいえなかったので、イランとの国境を越えて(難民)キャンプに行きましたが、そこでの日々も過酷なものでした。病気や劣悪な環境のために、たくさんの家族が子どもを失いました。毛布でテントを作り、夜にはとても寒く、その中で火を使わなければなりませんでした。
川が近かったので、川の水を飲み水や料理、洗い物に使いました。赤ちゃん用のものを川で洗うのは、水がとても冷たかったです。料理に使うたきぎを取るために、夫は川を渡って行かなければなりませんでした。川の流れがとても早いので、渡るときに流されないよう、男の人たちが川のこちらと向こう岸の間にロープを張りました。みんな毎日、何かが変わって家に帰れるという知らせを待ち続けていました。

ある日、私たちはキャンプを出て国へ戻ることにしました。病気と食料不足、悪天候のために、このままでは子どもたちを失うと感じたからです。国境の向こう側にはイラク軍がいて、アンファル作戦の時のように女性を連行し、男性を殺すだろうという人もいて、とても気になりましたが、牢屋のようなキャンプでこれ以上過ごすことはできませんでした。
国境の検問所にたどり着いたもののイラン兵がゲートを開けてくれませんでしたが、夫がイラン兵と話している間に、ゲートを開けて国境を越えました。長いドライブの末に、ようやくイラク国境に着きました。はじめ近づくのをためらいましたが、キャンプでの生活は人間の生活とは言えなかったので、これ以上気にしている余裕はありませんでした。近づくとイラク軍が見えて、いくつか質問された後に入国を許されました。バグダッドからどのようにここまで来たのかと聞かれ、長い話だと答えました。
逮捕されるかもしれないという恐怖は消えず、不安なまま、ようやくバグダッドの家の近くまで車でたどり着きました。親族の人たちが私たちを見つけて、生きていたなんて信じられないと言いました。
これが、私のこれまでの人生で最悪の経験でした。

イラク・アルバット難民キャンプでの生活の様子イラク・アルバット難民キャンプでの生活の様子
2015年4月に視察したときのイラク・アルバット難民キャンプの様子2015年4月に視察したときのイラク・アルバット難民キャンプの様子

※こちらの写真は2015年にイラク・アルバット難民キャンプで撮影された写真です。現在でもイラクではこの体験談のように、多くの方が厳しい難民生活を強いられています。