これまでプロサバンナ事業に関して外務省やJICAと議論してきて、すでに3年以上が経つ。この間、ずっと考えてきた言葉がある。「農民主権」である。政府と私たちのこれまでの議論は、この言葉の解釈をめぐって行われてきたと言っても過言ではない。
「対話はしてきた」という自負の裏にあるもの
私たちは、意見交換の場で一貫して「誰のための援助なのか」と問うてきた。その度に、政府は「私たちも農民のことを第一に考えています」と答えてきた。農民が求める情報提供と説明責任を果たし、時間をかけて対話し、 NGOを介在させて対話プラットフォームをつくってきたと自画自賛する。この、「農民のためにやっている」と言い張る自信は一体どこから来るのだろうか。3年近くつき合って、少しわかったことがある。単に彼らが厚顔で「嘘」をついている、というわけではなく、「農民のため」にやっていると本当に信じているようなのだ。最初は、これは善意の思い込みで現実を見ない「無知」と「無視」のなせる技だと思っていた。しかし、根はもっと深いようである。この問題を、「農民主権」という言葉から考えてみたい。
当事者性の押し付けとパターナリズム
「農民主権」という言葉は、より根源的な言葉である「当事者主権(individual autonomy)」を想起させる。日本では、中西正司が2003年に障害者運動の文脈で書いた『当事者主権』(岩波新書)が大きな議論を巻き起こした。中西はその本の中で、障害者ケアをめぐって、「当事者主体」や「利用者本位」とは異なる「主権」という強い用語を当てて、障害者が持つ「他者に譲渡することのできない至高の権利」を主張した。同時に、専門家中心主義に潜むサービス供給者側のパターナリズム(本人よりも専門家のほうが本人の事柄について適切に判断できる、という考え方)を批判している。
プロサバンナ事業をめぐって、私たち日本の市民社会は、現地の農民がプロサバンナによって社会的不利益を被る者に「なる」ことを強く意識していた。現代の食と農のあり方が農民に不利益をもたらし、結果として社会的弱者になっていくことは、これまでの世界の農村開発の歴史から明らかだったからである。プロサバンナは、農民に、開発の結果として農民としての本来的能力を奪われた「社会的弱者」にさせられることへの不安を抱かせ、彼らをして「自己決定権」を持つ権利主体として異議申し立てさせることになったのである。私たちは、それを「農民主権」と呼ぶ。
考えたいのは、農民が望んで権利主体となったわけではないということだ。先の中西の議論を援用すれば、農民はモザンビーク政府や日本の開発援助によって農民としての当事者能力が奪われそうになり、それを守る義務が政府や援助者にあるのではないかと主張するために権利主体と「なった」のである。農民は自給自足できる能力を持ち、静かな暮らしを営んでいた。その頃、彼らは権利を主張する存在ではなく、開発事業の当事者でもなかった。しかし、プロサバンナの登場によって、彼らは「開発」対象となり、ニーズを持つ「当事者」とさせられたのである。となれば、農民が最も重要なニーズとして、プロサバンナについての情報や説明提供を求め、それは権利であると主張することはもっともであろう。しかし、政府とJICAは、このことの理解を欠いている。だから、JICAがそれらを単なる手続き論として扱い、情報提供や説明責任を技術論的問題として扱ったことに対し、農民は大いなる失望と怒りを表明したのである。
加えて、JICAは前述の専門家中心主義から抜け出せていない。意見交換の度にJICAは「私たちも農民のためを思ってやっているのですよ」と悲しい顔で懇願する。専門家であるJICAが、農民自身も気づいていない潜在ニーズに気づかせてあげるのだという善意の主張は、援助者のパターナリズムに他ならない。
当事者がもつ主権を尊重するには
国際協力もケアの世界と似て、ニーズとサービスの交換であると考えている。そして、ニーズとは援助者と被援助者の対話の中で、感得され表出されてくるものである。さらに言えば、ニーズのあり方は実に多様であり、だからこそ援助は難しく、慎重な対話と丁寧なニーズのすくい上げが重要なのである。
当事者自身が納得できるニーズを離れてどのようなサービスも成立しえない、という意味でも、農民はこの事業における「主権者」なのである。