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ODA ウォッチ: プロサバンナ事業 第9 回

政治力学に無垢を装う「開発」の虚構のなかで

調査研究・政策提言担当 高橋 清貴
2014年11月13日 更新

今回は、昨年に引き続き実施したモザンビークへの調査訪問の報告となる。詳細な調査結果は別途報告にまとめるとして、ここでは今回の訪問で高橋が見てきた風景から、そこに暮らす農民たちが開発から取り残される仕組みについて考察する。(編集部)

情報と権力の非対称性

今夏、モザンビークを再訪した。五名の日本の市民社会のメンバーで手分けをし、現地市民社会の協力を得てプロサバンナ事業の実態調査を行なった。今回の調査では、JICAにも協力・同行してもらうことで彼らの持つ情報を知ったり、彼らの農民への接し方を観察することができた。筆者も全日程でJICAが同行し、モザンビーク政府担当者との会合や事業地(農村)を訪問することができた。

今回の収穫は、事業を推進している現場コンサルタントの把握する情報が、これまでの意見交換会や公開文書から得た情報に比べ格段に多いという発見だ。当たり前と言えばそれまでだが、特に農業開発に関わる他ドナーや企業の動きが活発なことに驚いた。

農民のプロサバンナに対する根本的疑問のひとつが事業の妥当性にある。とりわけ主たるステークホルダーであるべき農民にとって、土地収奪を伴う大規模農業開発は受け入れ難い。その意味で、土地収奪を起こしている他開発や企業の動きや土地が奪われないようにするための情報が、きちんと農民と共有されなければ、事業が妥当であるとは言えまい。しかし、私たちがそうであるように、農民もまったく「無知」のままに置かれている。

政府役人やJICAが「開発」目的で村に来れば、そこでの会合は「儀式的」になることが一般的だ。「開発」がもたらす権力関係の中で農民は萎縮し、「期待」や「成果」のみを語ることになる。プロサバンナは農民が自発的につくった事業ではなく、こうした儀式的会合の下において「小農のため」とされているに過ぎない。

ある女性農民グループを訪問した時のことだ。一連の「儀式的会合」に辟易した私は「何でも思っていることを教えてください」と問いかけてみた。すると、女性たちは口々に不満を話し始めた。盛り上がってきたと思った時、同行した政府農業普及員(モザンビーク人)の一声。女性たちは一斉に口を閉ざしてしまった。よくある光景だろう。それだけに両者の非対称な関係は明らかだった。権力は情報格差をもたらす。それを埋めるには、情報を持つ側、すなわち政府やJICA側から働きかけなければならない。しかし、コンサルタントやJICAは終始無言であった。「小農のため」という目的は、現場レベルで形骸化している。

開発の外に置かれる農民

無干渉なJICAの姿勢は、ナンプーラ州農業省局長との会合でも見られた。局長は強硬なプロサバンナ推進論者である。NGOと紹介された私の面前でも、事業に反対する農民や市民社会を「事業を政治化させている」と非難するほどだ。この「正直」すぎる局長は、自分の発言こそが事業を「政治化」させていることを自覚していない。

国家が「国民」をソフトに抑圧する政治的ツールとして「開発」があり、経済的指標や技術論でその政治的意図を覆い隠す、言ってみれば「虚構」である。そして、この「虚構」を支える予定調和を乱す者を、一般的にドナーは歓迎しない。もしここに欧米ドナーが同席していたら、嘘でも「正論」を吐いて局長の発言を中和しようとするだろう。開発を「政治化」させないよう努力することこそが、公共セクターや援助専門家の役割だからだ。しかし、ここでもJICAは終始無言であった。局長と同じように「事業の政治化」の責任を市民側に押しつけたいと思ったのかどうかはわからない。しかし、この「虚構」を政府と国民が共有することが、権力者にとって望ましい「ガバナンス」である。とするならば(市民社会にとってそれは必ずしも望ましいとは限らないが)、そしてJICAが真剣にガバナンスを考えているならば、この局長の発言に介入すべきだったろう。

この二つのエピソードが示唆するのは、この事業の問題の本質をつかみ得ていない「無垢」な日本の援助関係者の姿である。無垢を装うことで既定路線を進むという意図なのかはわからないが、無垢は無責任体系に通じる。一方で、コンサルタントは市場原理のもと自らの専門性に従って農村開発モデルを進める。政府が定める枠の中で動くしかないため農民の権利などは無視して、生産性向上や能力向上、組織強化など技術論で事業を進める。結果、農民は「開発」の客体に落とし込まれ、受け身的に契約栽培に誘われていく。日本の「無垢」が農民を追い詰めている、と言える。