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【no.290 特集-2】 JVC「らしさ」を生かせる国内支援とは?

事務局長 清水 俊弘
2011年12月 5日 更新

なぜ、海外に? なぜ、国内なの?

私たちはよく「日本にもたくさんの問題があるのに、なぜわざわざ海外に行くのか?」という問いかけをいただく。逆に今回は、「なぜ国際協力のNGOが国内の震災に関わるのか?」とも言われる。こんな時だからこそ、誰かが外にも目を配り続けなければいけないのではないかと。これらは他者からの言葉であると同時に、自らに問いかける言葉でもある。

JVCはこれまで海外における災害支援をいくつか経験してきた。記憶に新しいのはスマトラ沖地震に伴う大津波(タイ南部)、パキスタン北部の大震災、ジャワ島地震などがあげられる。このような地域で外国のNGOが活動するには理由がある。もともとの社会インフラ(医療体制や衛生環境など)が脆弱であること、民族・国籍の違いから起こる差別的扱い、政府・軍部の統制が強く、政策批判や自由な発言、報道ができないなど様々な権利阻害要因が複合的に作用して被害を拡大させ、事態収束の遅延を招くからである。そのような地域では、むしろ外国人の介入が政府・行政と住民の間のクッションとして、また橋渡し役として機能することもあり、医療・衛生改善から社会インフラの復旧に至る様々な分野で地元の人々との協力活動を展開する意義は大きい。

翻ひるがえって日本という国はどうか。社会インフラは地方農村の隅々まで整備され、災害時における行政職員の士気も高く、地域の自治組織も一定の機能を果たしている。また、一部の外国人への差別・偏見は否定できないが、一方で悪平等と言われるほどの「公平性」が求められてもいる。つまり、日本社会における災害支援においてのNGOの役割は、海外の紛争地や災害 被災地におけるそれとは違ってくる。

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もちろん、私たちがやるべきことがあれば積極的に取り組めばよいし、これまでの経験から支援のあり方や政策的な面での改善提案もできるかもしれない。しかし、これまでの私たちは、日本国内で起こった災害に対しては地元NPOなどへの間接的な協力※注(1)に留まり、当地で活動する諸団体と直接肩を並べることはなかった。それは関心を持たなかったからではなく、政府、地元住民、地域行政、そして個々に駆けつけるボランティアの皆さんの力で十分に対応できると思えたからである。結果的にそうした支援体制からこぼれる様々な問題も多いことは承知しているが、それよりも災害のショックで日本中が内向き傾向になる時こそ本来の仕事に注力し、海外で起きていることを、またその問題と日本との関係についての関心喚起、問題提起を続けていくのが私たちの役割なのではないか、と思ってきた。

※注(1) 阪神淡路大震災の際には在日外国人に対するサポートとして「多文化共生センター」を通しての支援を行った。

何が、私たちの背中を押したのか?

私たちは現在の中期方針のひとつに、「地域内のつながりの回復と環境に配慮した地域循環のある暮らしや生き方」をとも につくることを掲げている。すなわち、今日言われる「グローバリゼーション」という大きな経済単位の中に組み込まれて、自分の食べる農作物を作ることよりも、市場競争力のある「売り物」作りを競い、しかしその所得は投機的な国際相場に翻弄されるという不安定な生活から脱却し、自らが自律的に生きるための暮らしを目指そうとする人々とともに歩もうという考えだ。そのため、国内外を問わずこうした自律的な生活を目指す人々との出会いを増やし、つながりを持っていこうという試みを進めてきた。今年も山形や島根などの農村の人々との交流を深め、国の境を越えて互いの地域を、生き方を支え合う関係作りに取り組むことを確認した矢先の大惨事だった。

被災規模は全長五百キロメートルに及び、日本の将来の社会構造にも大きく影響するであろう深刻な災害を前に、理屈を超 えたところで何かをしなければと思った人は少なくない。当然JVCで活動する個々のスタッフの胸にも同様の想いがある。加えて、今回の被災地域が漁業や農業、林業という自然と向き合う仕事を生業とする人々が比較的多い東北地方であったことが、私たちの判断に少なからず影響している。長年海外での支援活動に携わってきた私たちの頭をかすめるのは、復興過程において必ずや起こりうる「復興政策」と市民の実生活の乖離だ。例えば、基幹産業である漁業の立て直しや農林業の再生などを巡って、大規模な整理・統合を前提とした資金投入が予想される(すでに漁業特区政策が具体化し始めている)。

こうした「復興政策」による効率化・合理化は従来からある家族主体の漁の営みの回復を阻み、代々続いてきた地域のつながりを断ち切ってしまうかもしれない。私たちがこれまで様々な国での復興支援で直面してきたことと同様の課題(市民不在の復興・開発プロセス、援助の偏重、人々の自立を損なう支援など)が幾重にも重なって出てくることが容易に想像できる。
たとえ形が変わろうとも当地の人々が再び彼ららしく生きる「場」を回復できるよう、私たちも何かしなければという気持ちを固めるには十分過ぎる状況だった。

互いの「間」を大切に〜災害ボランティアセンターから地域へ〜

災害ボラセンの受付にならぶボランティアの長蛇の列。災害ボラセンの受付にならぶボランティアの長蛇の列。

三月下旬、初めて被災地に入る時確認したことは、地元の人々の復興努力を後ろから支えようということと、支援のあり方、現地の状況と政策に乖離があるなら声をあげていこうということだった。被災した海岸線を南から北上する形で視察した。発災から十日目を迎えた被災地では、避難所などへの物資がようやく回り始め、自衛隊などによる炊き出しも本格化しているかに見えた。しかし、まだ復興を語るには早すぎる緊急状況には違いなかった。

そうした中、これまで国際協力の活動の中で築いてきた人間関係を頼りに、わずかながらの支援物資をあちこちの避難所に 届けながら行き着いたのが気仙沼だった。ここで、災害ボランティアセンター(以下災害ボラセン)の立ち上げ準備に出会うことになる。地域のことは知らなくても、これから参集する多くのボランティアの人たちを効率よく調整することはJVCにもできる。またそうすることで、私たちなりにこの地域のことを学ぶ機会と時間を与えてくれると思った。そして、これは地元の人々(特に社会福祉協議会の人々)の活動を後ろから支える取り組みだ。いい「入り口」を得たと思った。

あれから五ヵ月、仮設住宅の建設も進み、予定よりは遅いものの避難所の半数以上の人々が仮設住宅での暮らしを始めた。災害ボラセンも八月から体制を変え、仮設入居者への生活支援も含めた中長期的な支援体制を整え始めている。災害ボラセンでの活動を通じて、様々な地域の人々と出会い、復興に向けての思いを聞く機会を得た。災害ボラセンの役割が転機を迎えるこの時期、私たちも運営支援から一歩踏み出し、沿岸部の集落の人々と少しずつ関係を深めている。これまでのようなボラン ティアを頼む人と頼まれる人の関係から、固有名詞で呼び合える顔の見える関係に転換し、生活に必要な支援をしていこうとしている。

「なんでも助けてもらったら、俺たちがだめになる」。津波で船を流され、養殖いかだを壊されたKさんの言葉だ。私たちが三十年の国際協力経験の中で学んだこと、それはいかに「援助」の弊害を最小化させるかということだ。何かを支援することで、得られるものもあれば失われるものもある。私たちが「してしまう」ことで元々地域にあった仕組みを壊してはならない。大事なことは被災地に暮らす人々自身が「復興」の設計者であり、施主である。そのことを忘れないよう、出過ぎず、引き過ぎずの「間」を大切にしていきたい。

そして、何年か後になって被災地の人々の生活が落ち着きを取り戻したとき、「そういえばJVCの人たちは今どこでどんな活動をしてるのだろう」と思いだしてもらえれば幸いである。

No.290 生き残った私たち (2011年8月20日発行) に掲載】