\n"; ?> JVC - 1980年代と90年代に始めた事業から見える意義そして教訓を語りつくす - Trial&Error掲載記事
[特 集]終了する事業から見るJVCの歩み (PART1)

1980年代と90年代に始めた事業から見える意義そして教訓を語りつくす

2021年7月28日 更新

1980年の設立から40年が経過し、時代が激しく変化する中、果たしてJVCはどのような課題に向き合い、世界のどの地域でどのような活動をすべきなのか?
一昨年から昨年にかけて、私たちはこのような問いを自らに投げかけ、活動をゼロベースで見直す「事業再編」の議論を全スタッフ参加で行ってきた(注1)。その議論から見えてきた今後のJVCの方向性には、新しい国や地域での事業展開の可能性と同時に、これまで実施してきたいくつかの事業の終了が含まれている。具体的には、カンボジア、タイ、アフガニスタン、イラクの4事業が2021年3月をもって国別事業としては終了するこ とになった。
終了にはそれぞれの理由や背景がある。JVC創設期から活動を続けてきたカンボジアやタイについては、できることをやり切り、役割を果たしての終了と言うことができるだろう。厳しい社会状況が続くアフガニスタンやイラクでは、現地への渡航制限や資金面での制約といった要因が事業終了の背景にあるが、JVCが連携してきた現地NGOによって何らかの活動は今後も続けられていく。
終了の理由はどうあれ、事業を閉じるにあたっては、それまでの活動の歴史からその意義や成果、失敗と教訓を見出し、未来に生かすことが大切だ。
そこで今号から何回かにわたり、終了する事業に関わるJVCの歩みを振り返ってみたい。初回は、JVC設立から1990年代までのタイとカンボジアに焦点を当て、当時を知る大先輩たちに座談会で大いに語っていただいた。
JVC代表理事 今井 高樹

◎注1...本誌340号28ページの今井執筆記事、343号巻頭の座談会記事を参照

座談会参加メンバー

  • 岩崎 美佐子/元JVCスタッフ
  • 熊岡 路矢/元JVC代表理事
  • 清水 俊弘/JVC副代表
  • 長谷部 貴俊/前JVC事務局長

飛び込んだ、のめりこんだ80年代

長谷部 今年はJVC結成40周年であり、最初の活動地であるカンボジアとタイの事業も2020年度で終了となります。この節目に、JVCが東南アジアで行ってきた事業について、80年代と90年代を振り返りたいと思います。まずは、お三方がJVCに関った経緯を話してください。

熊岡 40年前は自動車整備工をしていました。1979年、ベトナム軍がカンボジアのポル・ポト政権を転覆させ、多くの難民が出たと報道で知った。60年代以来、ベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国に強い関心があり、この時、「行きたい」と思ったが国境は閉じていた。それでも、難民キャンプなら行けるはずだとタイに個人で行きました。ちょうど、朝日新聞の天声人語が「タイのバンコクでJVCが創立された」と報じた日でした。できて2、3日目のJVCを訪れました。

岩崎 79年に家族でバンコクに行きました。国境のアランヤプラテートで難民がたくさん出たのは知りながら何もできないでいると、翌年4月にJVCを知り、ボランティアとして関った。家族がいるから、バンコクだけの活動だったけど、ある日福村州馬さんについて行ったスラムで衝撃を受けて、のめりこみました。82年に帰国していったんJVCを離れたけど、86年からスタッフとして働きました。

清水 85年、学生の時、アフリカの飢餓問題を機に、JVCでボランティアを始めました。当時は日本に定住した難民の支援などもやった。87年にスタッフになり、最初にタイのカオイダン難民キャンプ、その後、90年代半ばまで、東京事務所や現地でカンボジア事業を担当しました。

長谷部 美佐子さんのスラムでの衝撃とはなんですか?

岩崎 当時は、向こうが困っている人で、こちらが何をしてあげられるかなと思っていたのに、スラムの住民は、社会的や経済的には困っているけど、おおらかで困難を生き抜く生命力をもっていた。その日暮らしなのに、なぜこんなに明るく暮らせるのか、なぜこんなに人に優しくできるのかに衝撃を受けました。その付き合いから、私たちは何をして、どう付き合うべきかを学びました。

熊岡 活動初期のタイ、バンコクの雰囲気はインドシナ難民に偏っていたので、福村さん、美佐子さんたちがスラムの活動を始めたのは印象的だった。僕も何度か行ったことがある。小屋で休んでいると、「食べな」とドリアンをおすそ分けしてくれた り、限りなく少ないものを持つ人が限りなく周りの人を考えてくれることに感激しましたね。

難民のほうは、難民キャンプで始めた自動車技術学校で、15、16歳の男の子が窓から僕らを見ていた。入学希望ではなく、ベトナム軍の侵攻で離ればなれになった姉を探して歩いていた。そういうエピソードがいくらでもある。戦争とか独裁政権の怖さを直接知っている人たちと接した衝撃は今も覚えている。

清水 僕が難民キャンプにいた時期は冷戦を挟んでいる。初めの2年間は、冷戦の行方が判らず、カンボジア紛争がいつまで続くのか判らない。国境の向こうからいつも砲弾の音が聞こえ、いつ国境を越えられるか想像もつかない時期が、一転、89年終盤に冷戦が終結し、ベトナム軍がカンボジアから撤退した。たちまち、和平に向けて難民の本国帰還をどうするのかという、キャンプの縮小・解消の流れの中に僕はいた。

国境の両側で活動した

長谷部 80年代は、援助の不均衡があった。タイ側の難民キャンプには国際支援がすごくつくが、カンボジア国内は西側と断絶し、国際協力は ほとんど入っていなかった。カンボジア国内にJVCは入っていくのですが、どういう議論をしての決断だったのですか?

熊岡 JVCは基本的に個人の集まり。在タイの独立系組織として創立され、上部機関がない。日本の他団体は国内に母体や上部構造があり、どうしても、上への忖度や日本政府の方針への忖度がある。今も覚えているが、80年に30人ほど集まり、今後何をしたいかの会議で二つの案が出た。一つが、カンボジア国内、広く言えばインドシナの中に入るべき。もう一つが、ソ連がアフガン侵攻したので(79年)、アフガンの人々や難民に何かをしたいということ。

岩崎 最初から、カンボジアに入らないという議論はなかった。やはり国境の両側から見ないと判らないと。

熊岡 しかし80年代、いざカンボジアに入ると、タイと比べると働くこ との次元が違った。社会主義政権では全然自由じゃない。「農村に行く」と言っただけで「お前らスパイか」と疑われた。その後、星野昌子さん(当時、JVC事務局長)は、バンコクの日本大使館から「国交のないカンボジアには行かないでほしい」と言われたようだが、カンボジアに入って、モニタリングしながら国際NGOのOXFAM英国(注2)と話し合い井戸掘り事業を構築した。

制限が強いカンボジアでも、井戸掘りは例外だった。政府から、「タケオ州40の郡の保健センターに井戸を一本ずつ掘ってくれ」と依頼され、けっこう農村を回れた。これが 後日、農村開発活動につながったと思う。

清水 カオイダン難民キャンプでの活動を始めて1年くらいしたころ、熊岡さんから「プノンペンに手伝いに来て」と言われた。すると、キャンプにいるカンボジア人は「殺されるぞ」と心配してくれた。そして、プノンペンに1か月いてカオイダンに戻り、カンボジア人に「カンボジアでは住民が普通に暮らし、JVCもちゃんと活動している」との報告会やったら、誰も信じない。他国から来たNGO職員も「へー」みたいな感じで驚いていた。それくらいカンボジア国内で活動するNGOはいなかった。

当時、国境の両側で活動したのは、JVC、ICRC(国際赤十字)、ハンディキャップ・インターナショ ナルなど限られていた。その両方の世界の経験は今でも印象に残ってい る。

長谷部 私は20年間NGOで働いてきたが、「いやいや、日本政府と国交ないところは無理だよ」と政府の顔色をうかがうNGOが多かったですね。

熊岡 カンボジアの生活環境は非常に悪かったので、海外スタッフは3カ月に一度はバンコクなどで休暇をとるルールがあった。バンコクに行くと、今川幸雄さん(公使)というカンボジア専門家に報告をしたり、各メディアに情報提供したりの外に伝える役割、そして、停戦・平和に向けたアドボカシ―の一部を担った。

岩崎 JVCのカンボジア情報は日本政府も重宝していたというか、それくらいしかチャンネルがなかったのは覚えている。

熊岡 アフリカでも、83年以降、エチオピアから難民が流出したソマリアと、飢餓に苦しむエチオピアと両国で活動を始めた。カンボジアもそうだが、アフリカでも国境の向こう側とこちら側で人を送って活動していた日本のNGOは少なかった。80年代のJVCはとても個性的で目立つ存在だった。

◎注2...OXFAM 80年代は英国のNGO。1990年代からは、連合化が進み、米国、カナダ、オランダ、ベルギー、フランス、豪州、ニュージーランドにもOXFAMが生まれた。

緊急支援から農村開発への転換

長谷部 JVCはその後、インドシナ半島での地域開発や農村開発活動へと転換します。この転換は、どういう時代背景で、どういう内部議論を経たものですか?

清水 カンボジアでは農村開発に絞っていく前段階があったんだよね。ポル・ポト政権後のヘン・サムリン政権はベトナムの傀儡政権と言われ、国際社会から見放された13年間があり、そのあと本格的な復興との段階になっても、人材もいないし、インフラもボロボロ、資金も法律もない状況では、ニーズは何でもあった。80年代は、自動車整備関連の人材育成を通し、国内の物資輸送、農村部での水問題、保健・医療の問題など他分野で活動を続けた。

ところが、90年代に国際社会にカンボジアが再びつながると、世界銀行をはじめ多くの海外援助が入ってきた。有償援助については返済しなければならない。返すための政策のひとつとして自然資源が切り売りされると、環境破壊が進み、農業も輸出志向の強い農業が奨励される。

自分たちが食べるための農業が脅威にさらされるなかで、僕たちがこの先長い目でフォーカスするのはそういう分野だとの思いを強め、農村開発中心の活動に集約されていったのが大きな流れ。

あと保健活動でも、シェア(注3)の意向もあり、86年とか87年、プノンペンから外に行くのは難しい時代に、敢えてプノンペンの外の地域で母子保健所を応援する活動ができた。

岩崎 その母子保健で思い出したけど、本当に隙間を縫うというか、カンボジアでは、やれることは何でもやるという感じで広げていった感じはある。

長谷部 JVCが行った地域開発の成果というか、地域や市民社会へのインパクトとして、何を残したのでしょう?

清水 僕らが目指したのは、農村の人たちが個々にどう力をつけるかということと、コミュニティとしての機能を再生させること。だから農業トレーニング、井戸掘り、米銀行などを通じてコミュニティ活動を活性化する取り組みをさまざまやりながら、もう一つやったのは、TRC(トレーナーズ・リソースセンター。注4)を立ち上げ、そういう経験を紙に残し、それを農業大学の学生や農村開発に取り組むNGOや農業省の役人が手に取って見れる資料としてまとめたり、ときには、そういう人たちへのトレーニングをチャタジーさん(注5)がやったりとかで、点の活動から面の活動にする取り組みをしていた。

岩崎 私がいたときが一番成功していた。TRCも頻繁にトレーニングをして、カンボジア国内外のNGOスタッフが来て環境教育のノウハウを学んでいた。農村の活動は複合的な農業を中心に、女性のスモール・ファイナンス、米銀行、牛銀行、井戸掘り、水がめづくりと充実していた。井戸掘り、水がめづくりも、掘ったりつくったりしてあげるのではなく、セメントリングや型を貸すだけで彼らが協力してつくった。農民たちは自分たちで自分たちの村を作るんだとの気概に溢れていた。

長谷部 同じように、タイ国内でもJVCは転換期を迎えたのですね。

岩崎 タイのNGOは特殊で、昔の学生運動の流れをくむ人たちがNGOをいっぱい作っている。それがJVCと切磋琢磨する形でよりよい農村の在り方を模索する時期があった。それと 年代後半、名が知れた有機農業家の村上真平がバンコク郊外のノンジョクに自然農園を開き、いろいろな人を育てた。ネットワークもそのときに広がった。その二つでJVCはタイの人には評価されている。

熊岡 ノンジョクでの訓練は、当初、NGOワーカーやスタッフを育てる位置づけだったが、2、3年で有機農業の人材育成が前面に出た。同時に00年ころにはタイのNGOの力が強くなり、JVCからの事業とか援助支援型ではない、タイの人々との関係をより対等にする画期的な動きがあった。タイの転換期はJVC全体の転換を作ったと思います。

長谷部 ベトナムの地域開発はどういうものでした?

熊岡 カンボジア活動期には、経由地ベトナムの北部と南部を観察していた。ベトナムはカンボジア以上に統制が厳しい。公安には「お前のような外国人がなぜここにいる」と怒鳴られた。89年、90年は農村開発ができる状況ではなかった。初期の活動は、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の友人が代表としてハノイ駐在だったこともあり、香港に出たが難民認定されずに帰国した人が社会復帰するための技術訓練から入った。あと北部、南部で、障害児童への福祉活動を行い、これら人道的復興支援が入り口となって農村開発のフェーズに入ったと記憶する。

◎注3...シェア 特定非営利活動法人シェア=国際保健協力市民の会(Services for the Health in Asian and African Regions=SHARE)JVC関係者から生まれ、独立した保健NGO

◎注4...TRC Trainers Resource Center JVCの農村開発活動であるSARD=Sustainable Agriculture and Rural Development (持続可能な農業と地域開発)の一部としてJVCプノンペン事務所の一角に設置された図書館。カンボジアでの農業トレーニングやコミュニティ活動の教材や活動事例をまとめた冊子を集め、同様の活動をするNGOや農業省の役人、農業大学の学生たちが閲覧できるように整理されている。インドやバングラ、ネパールなどの地域の資料も集められた。

◎注5...チャタジーさん オルデンドゥー・チャタジー。インドの農村開発家。一貫して循環農業で農村を豊かにする活動をしてきた。1992~94年(?)JVCスタッフとしてカンボジアの農村開発プロジェクトに関わりTRCを始める。現在はインドで農村開発のNGO を主宰。

国際社会がNGOに耳を傾けた時代

長谷部 カンボジア和平後以降にJVCが現地で果たした役割は何になりますか?

清水 90年代、カンボジアで和平合意後に国際社会からの支援が始まった。その時期は、NGOの活動が国際社会よりも先行していた。カンボジアの各役所の職員と人間関係をつくっていて、NGOが政策レベルに入りやすい環境があった。だから、国際社会がNGOの声に耳を傾けようとの姿勢はあった。

国際社会においても、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の代表に国連事務総長だった明石康さんが就任し、日本政府がカンボジア復興への音頭を取って最大のドナーとして貢献しようと言っていた時代でもある。そういう意味では、NGOが日本政府にモノ言う大事な位置にいた。僕らは、日本国内でカンボジア市民フォーラムという、日本のNGOの声を束ねる枠組みを作った。その声を政府にぶつけようという取り組みをしっかりやった時代。

岩崎 カンボジアのJVCの最初の社会的位置は、ほぼ日本を代表していた。JVCの自動車技術学校(注6)でも「ここを好きなだけ使え」と言われた場所は一等地で、1haをもらった。そこは、国際会議をやるときに唯一使われるホテルのすぐ近く、それくらい珍重されていた。

長谷部 しかし、その珍重も徐々になくなっていく...。

清水 その後、カンボジアでは、フン・セン政権が長くなり、汚職などの問題が浮上すると、西側の援助国や世銀はカンボジア政府に苦言を入れるようになる。すると、自分たちを批判しない中国への援助にどっぷり漬かるようになる。そして、人権だ何だとうるさいことを言う西側援助国やNGOとの関係が今は悪くなっているという流れですね。

岩崎 そう。NGOもだんだん煙たがられて、技術学校も私がいるときに川向う(新興地)へ行けと圧力をかけられ始めましたね。

◎注6...自動車技術学校 1980年の緊急支援で使われ壊れていた大型トラックの修理を機に、1985年、カンボジアに欠けていた技術学校(/工場)をつくり、技術者やメカニックを養成した(通常、機械技術者、職人はベトナム人がなることが多かったが、カンボジア政府からカンボジア=クメール人の技術者を増やしてほしいとの要望もあった)。

生の声を聞く、言うべきことをいう、そして優しくあれ

長谷部 80年代、90年代に東南アジアに関わった意義とは? 今から見て何が言えるのか?

熊岡 若い人の関心は欧米、自国に戻ったようだが、70年代後半から90年代は、若い人の関心がアジア、アフリカなどに動いた時期。JVCはそのひとつの架け橋になった。政治、社会、経済、人々の気持ちを双方に伝えた。それなりの役割を果たした。

岩崎 80年代は、日本人の海外渡航は増えたが、欧米と比べてまだ東南アジアは遠く、多くの日本人には怖いイメージがあった。そのなかで、そこに住む人たちの気持ちを知ることができた。JVC設立時にはたくさんの人が来て、いろいろな見て考える機会を与えられて、以後、JVCで活躍した人、国連に行った人など、種がまかれた時期だった。

清水 僕が関わったのは冷戦をまたぐ変化の時期で、日本にとって、東南アジアに対する関わり方が政策的にも大きな変化があった時期。そういう大きな流れの中で、僕らが草の根の声を伝えることができたのは意義があった。

長谷部 今のJVCへのメッセージはありますか。

熊岡 80年代のJVCは、アジア、アフリカでバリバリ活動した数少ないNGOとして人材も資金も集まった。しかし、2010年代の今、特にここ5、6年、国際NGOへの逆風も吹いているし、大きく増えたNGOのなかの一団体として何ができるか、どう考えるかの重荷を背負っている。一点、JVCと約 年つきあって思うのは、こういう「業界」には偉そうなやつが「助けてやるんだ」と来るものだけど、JVCは東京事務所でも現地でも優しい受け入れをしてくれる。それを続けてほしい。

岩崎 関わる人が元気に活動しているが、一番と思う。そして、資金の出所が、政府からのが多くなっても、言うべきことは言い、しなくてはならないことはするという態度は貫いてほしい。JVCは現場を知っているのが一番の強み。現場を知っているから言える。そこに軸足は置いておいてほしい。それは必ずしも事業を持つということではなく、現地の志を同じくする人たちとの交流や農民との交流から見えるものはたくさんある。

清水 仕事というより、自分はこういう生き方をしているんだと、人に語れる人であればいいかなと。大事なのは、土地の人たちと人間関係を維持して、生の声を聞ける距離に身を置くこと。伝え続けることはやめてはいけない。もう一つは、僕らだけの狭い関係にとどまらず、周囲のさまざまな人たちのネットワークを視野にいれて関わっていくことは、少なくともNGOスタッフとして心に留めておくべきです。

長谷部 本日はありがとうございました。

座談会参加メンバー

  • 岩崎 美佐子/元JVCスタッフ
    1980年に家族でバンコクにいたとき、ボランティアとしてJVCに参加。スラムにかかわってから、農村に関心を持つ。帰国後の1986年ころから再びJVCに参加して、スタッフとなる。日本国内でタイやパレスチナなどにかかわったのち1998年にカンボジアに赴任。2001年まで活動。

  • 熊岡 路矢/元JVC代表理事
    1980年、タイにおけるカンボジア/インドシナ難民救援活動、JVC創設に参加。1982年、シンガポールUNHCR難民キャンプで活動。1983年、カンボジアで井戸掘り給水活動視察。1985〜1988年、JVCカンボジア代表、技術学校開設・運営。孤児院、母 子保健支援など。1989年、第2回インドシナ難民国連国際会議参加(ジュネーブ)。1990〜1994年、ベトナムで帰還難民職業訓練・福祉プログラムなど。1993年、カンボジア市民フォーラム設立、事務局長。1995〜2006年、JVC代表/代表理事。2007年から難民審査参与員(法務省)。2007〜2009年、UNHCR駐日事務所アドバイザー。著書に『カンボジア最前線』(岩波新書)ほか。

  • 清水 俊弘/JVC副代表
    1962年東京生まれ。山梨県韮崎市在住。学生時代、アフリカの飢餓問題をきっかけ にJVCを知る。1987年〜1990年、JVC専従職員として、タイ・カンボジア国境の難民キャンプ、1992年〜1993年、東 京事務所カンボジア担当、1994年〜1996年 、カンボジア代表、2001年〜2002年、アフガニスタンの緊急支援などを経て、2002年よ り事務局長。2012年に退任。カンボジア在任中は現地で活動するNGOの協議体、CCC(Cooperation committee in Cambodia)の副委員長を務めた。現在はJVCの非専従の副代表。地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)代表理事、獨協大学、学習院大学などで非常勤講師を務める。

  • 長谷部 貴俊/前JVC事務局長
    1973年生まれ。1999年よりシャンティ国際ボランティア会(SVA) にて6年間勤務し、その間約2年間カンボジアに駐在。2005年6月からJVCに勤務。アフガニスタン東京担当を経て、2008年よりアフガニスタン現地代表を兼務。この間、頻繁にアフガニスタンのジャララバードに渡航。2012年7月〜2020年6月末まで事務局長としてイラクやカンボジアなどに渡航し、事業視察も行う。東エルサレム事業の立ち上げサポートを経て、2020年11月にJVCを退職。過去に日本平和学会企画委員(18年〜19年)、NPO法人つながっぺ南相馬理事(13年〜20年)。著書に『終わりなき戦争に抗う』(共著)新評論など。

No.344 1980年代と90年代に始めた事業から見える意義 そして教訓を語りつくす (2021年1月20日発行) に掲載】