はたらけど はたらけど
猶わが生活
楽にならざりぢっと手を見る
(石川啄木「一握の砂」より)
人口に膾炙した啄木の歌が、時折こころに浮かぶ。啄木が人の生活を見つめた時、ふと視線を向けたのはその手であった。
私の手はお世辞にも格好のいい手ではない。幼い頃から治らない爪をかむ癖が、なおさらそれを不格好にしている。無理をして机に向かった時にできたペンだこが中指に残ったままだ。めっきり楽器を手にしなくなったために、指先はふにゃふにゃしている。今はただ、少しばかりヤニばんでいるだけの手だ。
私は母の手が好きだった。母のことを思う時、なぜかその手を思い出す。ろくろく家事もせず、ただ芝居に明け暮れた人であったためか、どこか生活感のない手をしていた。とりわけ、紫しえん煙をくゆらせている時の母の手が、好きだった。すっと伸びた二つの指が、その手を妙に美しく見せていた。
海で生活を営んできた人の手は、一目でそれとわかる。指は太く、節くれだっていて、手の甲は分厚い。爪はつやを失って、土気色をしている。無数のしわが、深く、全体に刻まれている。武骨で、たくましさをたたえたその手は、見る者を包み込むような温かみを持っている。
彼らはその手で、飽きることなく、縄を結い、網を引き揚げ、豊かな海の恵みを受け取って来たのだ。来る日も来る日も使い込んできたその手には、生活そのものがにじんでいる。手が、その生きざまを語っている。
改めて、じっと自分の手を見てみる。何ものも語っていない手だ。いや、何ものでもないことを、語っている手だ。