多様化する援助の世界、CSO/NGOは正当性を保てるか?
「量」と「質」の議論
援助効果(Aid Effectiveness) の議論は、援助の「質」を問うものとして〇五年にOECD/DAC(経済協力開発機構 開発援助委員会、以下DAC)で「援助効果に関するパリ宣言」が結ばれたことから始まる。その背景の一つには、援助の「量」の議論だけでは「ミレニアム開発目標」(MDGs)で定める貧困削減の目標達成が難しいという現実がある。援助量が国際社会が定めた目標(先進国のODAをGNIの〇・七%)に達しても、残りの九九・三%の経済活動は国際援助の「外」で行なわれるものであり、途上国の人々の生活は、実はそうした経済のあり方(国際金融や多国籍企業の活動など)にも影響される。
ならば、そもそも限られた資源であるODAや援助を、これまで以上にムダを省き、他の経済活動も「貧困削減」の目的の下で調整しながら(政策一貫性という)、効率化や効果を高める努力をしなければ、本来の目標は 達成できないだろう、と考えられるようになったのである。
複雑さを増した国際援助
社会の多様化は、まず国際協力分野にある。国際援助という業界は、冷戦後から現在まで著しい変化を遂げてきた。九十二年の国連環境会議(通称リオ・サミット)を契機に高まり始めた地球環境問題と開発への国際社会の関心は、開発援助手法に関する議論の活発化を促し、ドナー国と途上国それぞれでNGOを増加させ、国連や世界銀行などでの政策議論にも影響を及ぼすことにつながっていく。
資金に関して言えば、三大感染症に対してグローバル・ファンドが誕生し、CSRなどの議論の高まりを受けて民間企業による社会貢献活動が活発化するようになり、ビル・ゲイツ・ファンドなど社会起業家からの資金 は小さなドナー国のODAを凌駕するほどになった。また、中国やインドなどかつては援助受取国だった国々も、アフリカなどより貧しい国々への新たなドナーとして台頭している。
このように、援助業界はかつてのような「援助国」と「被援助国」という単純な関係だけで語れなくなってきており、端的に言えば、この二十年間の国際援助の世界は、アクターの増加とその多様化が、複雑さと混乱を招いてきたのである。
そして、数多くの援助アクターが受入側に対してそれぞれ個別の書式による提案書や報告書を要求するために、援助を受ける側は、あまりにも複雑で膨大な業務量に圧倒されてしまっている。たいていの途上国には「開発省」のような省庁が存在するが、その担当者のデスクは膨大な書類の山が積まれているのが常である。また、「援助」と言っても、援助する側の考えや思惑の下で進められるものも少なくない。NGOや企業による援助も、この問いを免れ得ないだろう。
まずはこうしたことを見直すことが援助の「質」を高めるために必要なのではないか、という問いが、この援助効果議論の根底にある。つまり、多様に存在する「援助」を、現場の一点からその効果を見直そうということだ。実際、同様な援助が重複したり、特定の分野や地域に援助が集中したりすることはよく知られている。「パリ宣言」は、こうした現実的課題に応えるべきものである、とCSOは解釈したのである。
CSOが自らの開発効果を向上させる二つの理由
こうした援助効果の議論は、主に政府が行なう援助であるODAを対象としてきた。そして今、私たちNGOを含むCSOが自らの開発効果(Development Effectiveness)を見直す議論が起こっている。その主な理由は、谷山が後述するようにCSOが開発の主要なアクターになりつつあるという現状にあるが(五ページ参照)、CSOが自らこの議論に踏み込んだ背景はそれだけではない。「仕方がないから」議論するのではなく、もっと能動的な理由がある。ここでは、二つのことを述べておきたい。
ひとつは、先に述べた援助アクターの多様化という事情である。援助アクターの多様化によってODAの役割が援助業界全体の中で相対化され、その役割と意義は小さくなってきている。その一方で中国やインドなどの新興ドナーや社会起業家、NGOなどの台頭がめざましい。このことを踏まえたとき、援助の「質」を巡る議論は、ODAに限らずこうした新しい援助アクターに対しても適用されなければ、援助効果の議論そのものが意味をなさなくなる。
例えば、六ページで紹介する「CSO開発効果に関する原則」では、八つの原則のトップで人権について述べられている。恐らく今、社会貢献活動を行なう企業にとって、この人権という視点は必ずしも歓迎すべきものではないだろう。しかし、「開発効果の向上は人権への配慮なしにはあり得ない」という考えが主流になれば、企業も無視できなくなっていく。
CSOは、自らの開発効果を問われながらも、その過程を通して、企業など他の新しい援助アクターに対して正当性をもって「開発効果」とは何かという新たな「常識(デファクト・スタンダード)」をつくりだすという困難な挑戦に乗り出すことを決めたのである。
もうひとつの背景には、国際的な政治経済状況の転換がある。この十年間、国際社会は激しい変化を経験した。〇一年の「9.11」をきっかけに高まった国際的な「対テロ」安全保障議論。〇八年にはリーマンショック、石油・食料価格の高騰などの問題に直面している。こうした事は、国際社会の中で国家が自らの役割を再確認することにつながっていく。国家の存在意義である「国民の安全」の確保、気候変動による経済的な不利益の回避、不安定化する国際金融からの自国経済の保護、資源や食糧確保のための土地の争奪などにおいて、ナショナリズムが台頭を始めている。
しかし、その一方でグローバル化も進む。移民や外国への出稼ぎからの仕送りはすでに世界の援助総額を超え、国際NGOが「北」から「南」に流す資金は、時にODAを凌駕する。テロ組織の資金源もグローバル化の中で把握が難しくなってきている。その結果、国家は安全保障や資源確保のため、NGOや移民に対してまで納税措置を施すなどして財政確保に乗り出し始めているのである。
CSOの寄って立つ理念
NGOやCSOの活動を管理する動きも、こうしたことを背景として起こっている。一〇年十二月に参加した「CSO開発効果に関するアジア地域会議(於香港)」において、私はアジアのCSOの悲鳴にも似た自由を求める声を聞いた。「NGOを国防省に登録するなんておかしい!」「国家がなぜ良いNGOと悪いNGOを峻別するのだ」といったものだ。
CSOの存在意義とは何だろうか? 私は、「結社の自由」という人権の確保・維持にあると思う。医療や教育などの基礎的サービスが国家による管理のもとに運営されるかぎり、そこからいわゆる「市民」は生まれてはこないだろう。
JVCは東西冷戦の最中に生まれた。その意味で、政治的中立性は「東」にも「西」にも属さないことで確保できた。しかし冷戦後の今は、私たちの立ち位置の確認はより繊細で難しくなってきている。「9.11」以降は、「対テロ」安全保障という、割とわかりやすい国際政治に対峙することで相対的な立ち位置を確保することができた。
しかし、その後の国際状況の変化の中で私たちが問われているのは、この「結社の自由」、ひいては「表現の自由」を守ることではないだろうか。国家からの締めつけに対峙する際に、国内の論理だけでなく、国際的に通用するルールをつくりだしこれを提示することで自らの正当性を担保する。そのための運動を世界中のCSOと連帯していくこと。これこそが、この「CSO開発効果」を世界中で議論する意義であるように思う。
私たちが所属する東アジアでは、まさしくナショナリズムに関する議論が揺れている。「CSOの開発効果」を、JVCとしてどのような文脈で捉えるべきなのか、積極的に議論しながら考えていきたい。
市民社会組織(CSO:Civil Society Organizatino)とは:
一般的に「地域に根ざした組織」といった意味合いでも使用されるが、いわゆるNPO/NGO だけではなく、住民組織、民間研究機関、労働組合などを含む概念でもある。ミレニアム開発目標(MDGs) や社会的責任(SR)について調査研究を行なう団体であるCSOネットワークによれば、Civil Society は「政府や市場経済に管理されない生活の諸様式やそこに生れる空間、態度、意識の総体」、CSO は「Civil Society において結成される自発的な集合体、組織」と定義されている。